以下、ネタバレありですので、ネタバレを希望されない方はすぐに閉じてください。
こ
れ
は
ネ
タ
バ
レ
注
意
の
た
め
の
長
い
隙
間
空
け
の
た
め
の
文
字
列
で
す。
現在の日本を回避する宮崎駿 §
宮崎駿監督作品には、「現在」の「日本」を正面から描かないという特徴がありました。
- 未来少年コナン→未来の非日本
- カリオストロの城→現在の架空のヨーロッパ
- ナウシカ→未来のヨーロッパ風地域
- ラピュタ→空想上のヨーロッパ風過去
- トトロ→過去の日本
- 魔女宅→架空のヨーロッパ
- 紅の豚→過去のアドリア海
- もののけ姫→過去の日本
- 千と千尋→神々の世界
- ハウル→空想上のヨーロッパ風過去
ちなみに、「現在の日本」を扱った作品として「耳をすませば」を宮崎駿はプロデュースしていますが、この作品の内容には宮崎駿自身も関わっていると言われ、これが1つの転機であると考えられます。しかし、この作品において、「現在の日本」を扱う主たる原動力は近藤喜文監督にあったと考えられます。(詳細は略)
これに続く「もののけ姫」で宮崎監督は「日本」を正面から題材として取り上げますが、これは「現在」ではありません。千と千尋でも、「現在の日本」から物語が始まるものの、物語の主要な舞台は異世界です。
このような経緯から考えると、実はポニョが現在の日本を舞台にしているのは画期的なことだと言えます。確かに、ファンタジー的な海の世界も描かれるものの、人間が異世界に越境する話(千尋型)ではなく、異世界の者達が人間世界に越境してくる話であり、主要な舞台は紛れもなく「現在の日本」です。
「現在=2008年」というハードル §
しかし、宮崎駿がただ者ではないのは、「現在の日本」が漠然とした「今の日本」という捉え方ではなく、明らかに「2008年の今」を描いている点です。
おそらくセンスのない監督なら、「今の日本」を描くガジェットとして携帯電話や家庭用ゲーム機あたりを使うでしょう。しかし、ポニョにおいて「2008年の今」を意識させるアイテムとして使われているのは「少子高齢化」です。
たとえば、デイケアセンターで老人達が面倒を見てもらっている、というのは、「少子高齢化」の今時の日常的な光景です。だから、20世紀の映画でサラリーマンが満員電車に揺られている光景が『当たり前の「今」の描写である』のと同じように、老人達がデイケアセンターにいるのは、2008年の「今」を意識させる描写となります。
また、主人公宗介の周囲には「子供社会」が明瞭に存在しません。絡んでくる女の子がいるだけです。これは、「少子高齢化」の「少子」の部分の現われだと考えられます。
従って、宗介は同年代の相手との劇的な出会いを外部に期待せざるを得ません。ベビーブームの子供達が大量に幼稚園や学校に殺到し、次々と新設校が作られた時代なら、劇的な出会いはいくらでも日常的な世界の中にあり得ました。同じ幼稚園や学校の中ですら、いくらでも新鮮な出会いはあり得たのです。しかし、次々と学校が廃校となり、学級数もピーク時の数分の1になっている現状では、どうしても劇的な出会いは外部に求めざるを得ません。そして、海からやって来たポニョとはまさにそのような出会いを意味します。外の世界からやって来た不思議な生き物の持つ価値は、子供達の人口が多かった20世紀とは比較にならないぐらい高いものでしょう。であるから、宗介とポニョの出会いは劇的であり、宗介は必死にポニョを守らねばならないのです。
このような点で、ポニョとはまさに「現在=2008年」という最先端の「今の日本」を当然の前提として描いた映画だと言えます。
更に言えば、今は全く異質な者達が国境や地域や組織などを超えて行き来する時代です。ハンデを背負った人も社会に進出してきます。そうすると、まさに半魚人級の「怪物」としか見えないような者達と共存し、協調して生きていくことが要求されます。つまり、半魚人のポニョを許容するような生き方は、2008年現在の日本人に「選択の余地無く」求められていると言えます。その点で、ポニョという映画が最後に要求する「半魚人のポニョも好き」という認識は、不可避の現実を明るく肯定的に描いたとも言えます。
このような認識が、過去においては必ずしも要求されていなかったとすれば、これはまさに「2008年の今」を描いた描写であると言えます。
つまり、ありのままの2008年の今の日本を生きている者達であれば、ポニョは実感として「分かる」はずなのです。
しかし人は今を生きているとは限らない §
ところが、実際にはこれが「分からない」人も多いことが、ポニョの感想を見ていると分かります。
それはなぜでしょう?
その理由は、おそらく人々の大多数はまだ2008年の今を生きていないからだ、と考えられます。
人が考える「当たり前の世界」と、今そこにある「実際の世界」はたいていの場合、一致しません。たいていの場合、人は「世界とはこういうものである」と納得した時点で、世界の枠組みの認識を固定します。たとえば、働かない若者を見て「甘えている」と怒る年配者がいますが、それは労働者が売り手市場だった時代の認識を更新していないからでしょう。求人が減少し、条件の良い求人は激減している状況下で、思い通りに職が得られないのは珍しい話ではありませんが、そのような至極当たり前の現実が、認識として共有されているとは言えません。
同じように、少子高齢化の問題も当たり前の現実として共有されているとは言えません。たとえば学校が次々と廃校になったり、残った学校もクラス数が激減していたり、増加した老人の面倒を見るために様々な人がどれほど負担を増やしているのか等、実感として理解していない人もよく見かけます。
このようなタイプの人が、崖の上をポニョを見ても理解できません。意味不明の絵空事に見える可能性もあり得ます。
時間の逆転現象 §
ここで興味深いのは、既にいつ引退しても不思議ではない宮崎駿が2008年の今を把握して描いているのに対して、それよりも遙かに若いはずの多くの批判者達の認識は2008年に達していない点です。つまり時間の逆転が起こっています。
この皮肉さが宮崎駿の魅力であり、同時に嫌われる理由でもあるでしょう。
※ 念のために補足すると、老人の宮崎駿の方が「今」を生きているというのは、何ら不思議な話ではない。なぜなら、世の中には他人に先んじて進み続けねば納得できないタイプの者は存在するからだ。そのような者達は、中年になろうと老年になろうと、新しいものに常に興味を示し続ける。
まとめ §
- 「崖の上のポニョ」とは「2008年の今の日本」のリアリティに立脚した映画
- 観客の中には古い認識のままアップデートしていない人も珍しくない
- 彼らは「崖の上のポニョ」を理解できない可能性がある
- しかし、それは生々しい現実であるがゆえに、彼らもそのうちに実感として知ることになる可能性は高い
- そのプロセスを経た後で彼らが「崖の上のポニョ」を見たとき、急に実感として理解可能になる可能性がある
……、「崖の上のポニョ」を試写会見ることができた!! そして、ネットは否定的な感想で満ちあふれた!? (笑)と同じような結論になってしまったかも。
補足・ポンポン蒸気船は2008年の今か? §
とすると、ポンポン蒸気船や発光信号によるモールス符号が2008年の今の話題かという疑問が出てきますが、意外とこういったガジェットは「今時」のネタだったりします。趣味性の高い面白いネタとして、意外と支持度されています。たとえば、2003年から始まって今でも続く学研の「大人の科学」シリーズは、ピンホールカメラや鉱石ラジオといった原始的なアイテムを提供していますが、第1号の付録はポンポン蒸気船です。
またモールス符号による通信が、子供に実行させるための趣味性の高い手段であることも重要なポイントです。実は、宗介の父からの最初の連絡は電話で来ています。これが船上からなのか、それとも港で陸上から掛けたのかは良く分かりませんが、船から電話が掛けられるのはおそらく間違いないでしょう。また、アマチュア無線のアンテナと無線機も常備していて、本当に連絡が必要な場合の予備通信手段も確保されているのが分かります。このような「本当に必要な通信手段」を確保した上で、趣味性の高い通信手段を使ってみせる「ゆとり」は、やはり1990年代以降に見られる特徴ではないかと思います。
そういう意味でも、やはり崖の上のポニョは「新しい」と言えるのです。