【電遊奇譚:其六】小学生の雀鬼が麻雀を辞めるまで

勝負は時に人を狂わせ、教示する

【電遊奇譚:其六】 小学生の雀鬼が麻雀を辞めるまで
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とある自動車整備会社の二階で「スターフォックス64」をプレイするとき、小学生の私が握っていたのはニンテンドー64ではなく、プレイステーションのコントローラーだった。そのあと隣の部屋で、エンカン服を着た大人たちに混ざって麻雀をしているとき、私は勝負事のおもしろさを学んだ。この文章はその経緯の素描である。

スターフォックスと麻雀卓

私の記憶にあるこの場所はいつもたくさんの人がいて、ブルーカラーもホワイトカラーも一緒くたになって酒を飲んでいた。どういう経緯があったのかはわからないが、自営業を営む私の両親は、もっとも懇意にしている得意先であったこの自動車会社の二階にある、オフィス兼食堂のようなところに、幼い私を預けることがあった。その場所にはしっかりとした革張りの応接椅子や伝票の束、台所とホシザキの冷蔵庫、永遠に若いままの水着姿で私たちに微笑みかけてくれるビール広告の美女のポスターなどがあったが、幼い私の注意を惹くものはふたつしかなかった。ひとつは、怪しげなコンピュータのなかで動作するニンテンドー64。もうひとつは、麻雀卓である。

ブラウン管の後ろ、デスクの奥深くから伸びているコードには、虫歯だらけの口のような基盤がくっついており、そこにプレイステーションのコントローラーが接続されている。Windows 98で動作する何らかのソフトウェアには、ハードディスクに保存されているデータの一覧があり、すべてのファイル名は、当時の子供にとってあまりにも魅力的なものばかりだった――「Super Mario 64」、「Mario Kart 64」、「The Legend of Zelda: Ocarina of Time」、「Star Fox 64」。その会社にいた誰かが、コンピュータに詳しかったのだろう。プレイステーションのコントローラーでプレイする「スターフォックス64」は、とてもやりにくかった。それでも、私はプレイを続けた。

たぶん、私の両親はすこし子育てに疲れていたのだろう。出勤する父が運転する車に乗り、彼の会社のなかでしばらく過ごし、昼食ののちに私はその場所に預けられた。日が暮れるまでは、コンピュータでゲームをして遊んだ記憶しかない。たまにエンカン服を着た男達があらわれて、伝票を書いたり、電話を取ったりしていたような気がする。私は彼らが何をしているのかにまったく興味を示さず、ただ黙々とプレイを続けた。窓の外が暗くなりはじめると、男たちは私のいるオフィスを通り抜けて、奥にある不揃いな長机に座り、さかんにビールを飲んだ。しばらくすると、この工場をもつ会長の妻が私を呼び、修理工たちや、得意先や、私のようなよくわからない事情でここにいる子供たちのために作った料理を、皆で食べた。

私がこの席に座って「スターフォックス64」をプレイしていたときには、この猫はいなかった。

そう、あれはいつも土曜日だった。明日になれば仕事は休み、飲み過ぎることを憂う必要もない。私の父もまた、不揃いなテーブルのどこかにいた。たぶん、会長の隣の席だ。座っていたのは、ぜんぶで十人かそこらだろう。よく話す人間がさかんに話題を提供し、寡黙な人間に白羽の矢が立つと、いつも軽妙な答えが返ってきた。私はその場所で交わされる会話を楽しんで聞いていた。内容はまったくわからずとも、楽しそうな雰囲気は伝わってきたのだ。

さて、その食堂の奥には、誰が持ちこんだのかはわからないが、麻雀卓が置かれていた。時折、大人たちのうち数名が麻雀をしようと言い始め、数人が酒の入ったグラスを持ち、席を立ってそちらに移動した。私が麻雀卓に興味を持ったのは、それがゲームの形をしていたからだ。幼い私は大人たちの会話に混ざることはできなかったが、ゲームでなら相手にしてもらえると考えたのだろう。それに、その場所に漂っているぴりっとした雰囲気も、なにか五感を刺激するようなところがあった。

先程までよく話していた男たちがいくばくか寡黙になり、眼前の卓上にじっと視線を注いでいる様をみて、私はこんなことを学んだのかもしれない――大人達がやるゲームは、真剣なのだ。

大人のための、真剣なゲーム

そういうわけで、私は近所の古本屋で麻雀の教則本を買い、ルールを覚えたあと、いつもとおなじような夜の宴席で、麻雀がしたい、と切り出した。大人たちは興味を持ったようだった。誰かが、やり方はわかるのか、と私に聞いた。わかる、本を読んだから、と私は答えた。大人たちは声をあげ、それならこいつに付き合おう、と数人が立ち上がった。私は夢でも見ているような気持ちで麻雀卓に座り、頭を必死に回転させながら、つぎつぎと切られていく牌に混乱しつつ、彼らになんとかついていった。初戦の結果は、まったく覚えていない。

ローカルルールの話だ。その場所は大阪の北河内に位置しており、「完全先付けの赤有り喰いタン無し」が採用されていた。あまり正確ではないが、それはポーカーに喩えるなら、「ワンペアは役として認めず、ジョーカーはデッキに四枚入れる」というようなルールである。結果、各人の手は否応なく大きくなっていく。細かいところを言えば、オープンリーチも認められていた。そのルールがプレイヤーに言わんとしていたことはこうだった――千点や二千点のような手で「あがる」ような者は、勝負をする資格がない。

麻雀のおもしろさは、攻撃と防御の二者択一である。巡回していく順番のなかで、ひとりが山から伏せられた牌をひとつ取り、手牌から不要な牌を選んで捨てていく。プレイヤーは、ほかのプレイヤーが捨てた牌から、彼が必要としているものを察知する。もしも失敗すれば、自分が捨てた牌をもちいて「あがり」を宣言され、彼の手が要求するぶんの点数を支払うことになる。防御だけでなく、攻撃も肝心だ。リスクを冒してでも「あがり」たいほど良い手が自分に来ているとき、無理を「通し」て危険な牌を捨てる。死線をかいくぐってあがったときの喜びは何事にも代えがたく、他人にあがりを宣言されるときの絶望は蜜のように甘い。

あまり大きな声では言えないが、私は小遣いをいつも賭けに使っていた。おそらく大阪のそのあたり特有の呼称だとは思うが、その場所のレートは基本的には「点100」、自分が保持している点数の1/100を金高として扱うという、比較的穏健なものだった。それぞれの開始時の持ち点は25,000点。つまり、全員が一勝負に250円を賭けるわけだ。対局の終了時に開始時の持ち点よりも多く持っていれば、その差分だけ賞金を得ることができる。

私はこの遊びにすぐに夢中になった。純粋なゲームプレイのおもしろさがもたらす喜びに、べつの価値が加えられることによって、プレイヤーは否応なく興奮していく。小学生でもその恐ろしさは理解できた。もちろん、このレートなら、負けに負けたとしても500円程度。大人にしてみれば遊びの範疇だ。私は土曜日になるたびにあの場所へ行き、誰彼構わず麻雀に誘って、他人の財布から金を巻き上げたり支払ったりした。いつのまにか私は、大人たちから冗談交じりに「雀鬼」と呼ばれるようになり、その場所の名物のようなものになって、わざわざ小学生と麻雀を打つために遊びにくる人間もあらわれるほどだった。

ここのレートは点10やで

いまでも置かれているビールサーバー。自動車会社の食堂にビールサーバーがあることが、そもそも興味深い。

さて、あれはたぶん年の暮れの忘年会だ。いつもよりもたくさんの人がやってきて、山海のすばらしい食材、大量の仕出し寿司、数十個のハンバーガー、見たことがないほど巨大なケーキなどが持ち込まれた。酒屋が生ビールのサーバーの樽を十本ほど納品し、私は鋼鉄製の樽を運ぶ手伝いをした。いかにもどこかで釣りをしてきたばかりというような格好の男がクーラーボックスに満杯の魚を台所で捌いていき、その隣ではほんものの肉屋が巨大な肉塊を切り分けていた。彼らのエプロンについた血の色を、いまでもはっきり覚えている。

二十畳あまりの空間に、おそらく五十人くらいはいただろう。あちこちで鍋がぐつぐつと煮え、酒はいつまでも尽きることがなく、すべての人々が声高く笑っていた。私はいろんな大人たちと話をし、いろいろなことを聞かせてもらった印象があるが、その内容はほとんど覚えていない。幾人かは私を気に入ってくれ、背広の内ポケットやエンカン服の胸ポケットから、三つに折りたたまれた紙幣が入っているポチ袋を取り出し、私に与えてくれた。この経験のために、いまの私は年末になると、渡すあてのない弾入りのポチ袋をいくつか作るのだが、それはまた別の話だ。

大いに盛り上がった大宴会のどこかの時点で私のことがやり玉にあがり、こいつはまだ小学生なのに麻雀がめっぽう強い、という話題になった。忘年会のために遠方から来たのだろう、あまり見かけない顔の大人たちが興味を示し、私はいつのまにか雀卓の席に座っていた。三人は、まったく知らない大人たちだった。彼らは牌をかき混ぜながら、レートはどうするか、という話を始めた。私はポケットのなかに入っているポチ袋のことを思い出し、その中身を頭のなかですばやく計算してから、こう言ってみた。

「ここのレートは点10やで。」

彼らがどんな表情を見せたのかは覚えていない。とにかく私は、人生ではじめて「点10」――持ち点の1/10、つまり2,500円が掛け金となるレートで麻雀を打ちはじめた。

序盤から終盤にかけては、ほとんど動きのないまま終わった。これは採用されているローカルルールから考えると、驚異的なことである。あがりの手は高くともザンク(3900点)、満貫(8000点)は一回ほどで、それぞれのプレイヤーの持ち点の差はおおむね平らだったはずだ。南二局の親が私に回ってきた。賽子を振って山を決めたのち、私が手に掴んだ配牌は、あがりまでたったの一手の状態だった。

「自分の感覚を信じろ」という声が聞こえた気がした。

ここからの展開は克明に覚えている。それはオタ風を頭にしたなんの変哲もない「平和」で、リーチをかけても2,000点にしかならない手だった。私はしばらく牌を見つめたあと、最初に捨てる牌を横に傾けてリーチを宣言し、手牌を前に倒して、他のプレイヤーに手の内が見えるようにした。麻雀卓の周りにいたすべての人間が大声をあげた。その時点で、オープンの1役とダブルリーチの2役、そして1役の平和によって親満貫(12,000点)が確定した。一発は逃したが、数巡ののちに必要な牌がやってきて、面前自摸と裏ドラがつき、私の手にはさらに高い点がついた。

そこからは、自分でも恐くなるほどの運がやってきた。三度か四度ほど連続して、親のあがりを重ねた。私の心は牌によって完全に魅惑されていた。盛り上がっていた雀卓はしだいに沈黙が支配するようになったが、私はそれがなにを意味するのかまだ知らなかった。何度目かのあがりののち、対面のプレイヤーが点棒を出し渋った。私はただ、勝利しただけの点をもらおうというつもりで、点棒をくれ、と言った。

対面のプレイヤーはとつぜん怒りをあらわにし、私に向かって暴言をたたきつけた。たぶん、彼はハコ(持ち点がゼロを割ること)になったのだろう。私はとても驚いたが、彼はすぐに怒りを収め、きっちりと精算を済ませてから席を離れた。そして私の手には、くしゃくしゃの紙幣が数枚ほど残り、それでその日の麻雀は終わった。

勝負の相手

それからその男とは一度も会っていないが、いまでも、しっかりと私を正眼に捉えて怒りをあらわにした彼の表情を思い出す。そのときのことを知っている者は、子供を相手にあんなふうに怒ることは大人としておかしなことだと言う。いまの私は、こんなふうに考えている――彼が怒りを露わにしたのは、子供かどうかにかかわらず、私のことを立派な勝負の相手だと認めていたからだ。

私はあの勝負で得た金を握りしめてゲームショップに行き、「スターフォックス64」を、ビデオゲームをはじめて自分の金で買った。ちゃんとしたニンテンドー64のコンソールとコントローラーでプレイするのは、とても快適だった。そして私はいつしか中学生になり、他人のところに預けられなくともやっていけるようになった。私は世間に出てまたべつの楽しみを覚え、自然とあの場所に行かなくなり、それからいつのまにか十年以上の時が流れた。

先日、本稿で使用するための写真を撮りにあの場所へと赴いたところ、会長と婦人はあたたかく私を迎えてくれ、写真を使用する許可を快く与えてくれた。この原稿の筋書きを説明すると、あのとき私と対戦した男が、いまでは孫に囲まれて幸福に暮らしていることを教えてくれた。忘れてくれているといいんですが、と私が言うと、会長は、いまでも折りに触れて、彼が静かにあの時の話をすることがあると明かしてくれた。私はなんとも言えなくなって黙り込んだが、会長は私の目をじっと見てから微笑みを浮かべ、なつかしい高知弁で私にこう言った。

「しかし祥平、あらのぉ、ええ勝負やったで!」

(取材・撮影協力 (株)中野自動車 会長 中野隆氏、由利夫人)

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