わたしのブログ、お若い方はお読みにならないだろうと確信していますので、
ゼネレーション・ギャップはまったく念頭におかず、書きます。
ブログ村で、
数多くの様々なブログが、各々に膨大な閲覧数のある、某カテゴリーの話を読んだ。
なぜ、あんなに閲覧数が、どのブログもどのブログも多いのか、わたしの理解を超える。
デパートに行き、あるフロアーでは、どの高額商品も低額商品も、どれもこれもすべて売れ行きが良い、みたいなものか。
また、別のフロアーでは、いつも客足が少なく、がら~ん。
フロアー(=カテゴリー)が違うと、こうも違うものなのか。
美術品売り場なんか、がらんがらんだ。
最上階の催し物バーゲン会場や、ご当地グルメフェアは、混んでいそう。
(実際のところは、最近、デパートには、とんと、ご無沙汰なので、最新事情には疎いが)
さきほど、愚痴愚痴ブログを読んできた。
皆さん、あんなに、様々な大勢の人の愚痴を大量に読んで、面白いのか?
わたしの発見は、そこだ。
書く人は、書いて自分が救われる。
しかし、読む人は・・・?
ああ、わたしだけじゃないんだ、わたしより、もっと酷く可哀想な人がいるんだ、
・・・と、ある意味、救われるから、読むんだろうけれど。
下には下がいる、わたしなんか、まだ、マシなほう・・・と確認して、胸が、す~っとするんだろう。
各人、自分の精神衛生、管理上、ベストなコンディションを保つために、それぞれの方法があって、工夫されているようだ。
わたしは、べつに自分のことを賞
加州健身中心賛はもちろんのこと、賛同も共鳴もしてほしい、と思ってはいない。
似たような人々と集まり、同じ価値観を分かち合いたい、とは、思っていない。
しかしながら、ベースにある価値観は、同じであって欲しい。
たとえば、人権を守るだの、生命を守る、生活を守る、子供を守る・・・
平和を愛する、・・・とか。
書いても、「選挙が近いね。選挙演説?」、となってしまいそうだ。
そうとうの上から目線であることは、まあ、致し方ない。
低レベルの争いや、競争が、くだらないと感じてしまう。
自分が高レベルだとは、一言も言っていない。
わたし自身、自分も底辺で這いずり回っているが、底辺同士、競争しても、つまらないと思うだけだ。
それを上から目線ではなく、下から目線だと、どういうふうになるのか?
「恐れ多くも非力ながら、闘わせていただいています」、みたいなかんじか?
休憩時間に、悪口や愚痴を言っている仲間の輪に入らず、一人、読書している、そういう人間だ。
(嫌われてもヘーキ)
といっても、実際、読書はまったくしないけれど。
どうせ読むなら、写真集に解説がついているような、大きなサイズの本が読みやすいなあ・・・と。(→話、脱線してます)
空気を読むことに対して、過敏になりすぎる人々がいる。
「自分が空気を読む能力」を過信している場合もある。
目の敵にされるのは、
空気を読まない人間の言動で、その場がシラける・・・和やかな雰囲気をぶち壊す・・・そういう、ムードメーカーの真逆。
マイナスのムードメーカーといったところか。
わたしは、それに当てはまるかも知れない。
(大人になる前は、お笑い系だったが、ある日、羞恥心を感じて、無口系に転じた。
しかし、リアルなわたしを知る人は、そんなことを書くと笑うだろう)
なので、わたしは、リアルな世界では、あまり発言しない。(臆病なだけかも知れないが)
ネットの世界でも、自分のページでしか好きなことは書かない。
静かで穏便、ソフトな自閉症、内向的性格だと自己分析する。
自分の世界が大好きで快適なあまり、閉じこもり気味になるのだが、
なぜか、精神は閉鎖的でも、行動は、外に向って活動する。
精神も行動も両方、閉鎖的だと、(自己評価や結果なども考慮するので)バランスが取れない。
で、人の目は、極力、わたしに向かないことを好む。
注目を浴びるということなどは、もっとも居心地の悪い状況だ。
人の目を意識しない、自分の世界で泳ぐことが、わたしを気持ちよく解放させてくれる。
ブログを公表するというのも、
ある意味、自閉的な面と、外に向う面とを併せて同時進行していると思われる。
「人の心理が見える」、と書くと、「妄想だ」、と捉える人もいる。
いろいろなそれまでの例や行動パターンから、心理を推測することができるのだか、
本人は、そんなことは微塵も思っていない場合もあるだろう。
いちいち、事実や行動を照らし合わせ、ひとつひとつ検証するのは、めんどくさい。
よほど重要な関係である場合は、誤解を解いたり修復するために、そういう手間隙をかけて、改善するのだろうけれど、
そうでもない場合は、たいがい、お互い、放置する。
そして、「よほど重要な関係」というものは、そう多くないと思われる。
だから、大切にしたい。
が、うまくいかないことも多々多々ある。
ということで、わたしの場合は、たいがい、少々誤解されても、
そのうち解るだろう、あるいは、解らない人には解らないだろう、と、ほったらかしている。
なるように、なる。
なるようにしか、ならない。