『ef - a tale of memories.』が面白い!その2〜カットにこめられた時間〜

前回の記事は第2話まで終了した時点で書かれたものですが、おおむね自己満足出来たので続きは必要ないかな、と思っていました。しかし、その後の展開がシナリオ・演出ともに僕の予想を軽々と超えて行ったため、前回の記事の修正も兼ねて、改めて『ef』の魅力を考えてみることにします。


第4話より、紘と景・千尋の出会いのシーン。


最初に「あーそーぼ!」という書き文字が表示され、その後で景と千尋が実際に発音する、という独特なリズムが印象的です。
書き文字つながりで、第7話より、みやこが紘の留守番電話に大量のメッセージを残すシーン。



言葉が澱のように積み重なっていくイメージ。以上で提示した2つのシーンでは、最初のカットが次のカットと時間的に重なるような形で描かれています。第2話のラストシーンからEDまでの流れも同じですね。それまでロングショット主体で描かれてきた蓮冶と千尋の会話を、時間を巻き戻し、クローズショット主体で再構成しています。

以前、僕は「物語ることの本質はリズムをコントロールすることにある」と書きました。楽しい時間は早く、つまらない時間はゆっくりと流れる。そのリズムを描くことで逆に「楽しい」「つまらない」という感情が描き出されるのです。
書き文字と音声の組み合わせによって、繰り返し流れる時間。僕はそれを、その時間が思い出として刻み込まれることのメタファーではないかと思います。


ふたたび第7話より、蓮冶・千尋の会話シーン。

この回ではAパートの中で同じ構図が複数回現われます。どれもふたりが小説のシナリオについて話している場面ですが、その次のカットへの繋げ方によって、蓮冶の心境が表されています。

1回目。画面が唐突に暗転し、蓮冶の「ふーん……」という、よくわかっていないという感じの呟きが響きます。

2回目。チリチリとしたノイズが入り、砂嵐へ。その後回想シーンが始まり、千尋の持つ障害を蓮冶は思い出します。

3回目。砂嵐から回想シーンへ移行するのは同じですが、回想シーンでもノイズが走ります。
そしてこの後のシーンで蓮冶は、千尋が決定的に「ずれている」ことを実感します。そこに至る過程を段階的に、同じ構図からどう変化するかによって描写しているのだと考えられるでしょう。
第7話に限らず、『ef』では似た構図が繰り返し登場します。人物を変えたり、向きを変えたりしながら。

背中を見せている蓮冶と、前を向いている京介。前者は第1話Bパート、後者は第2話Aパートから引用しました。2人とも風景に塗りつぶされそうですが、将来に対する具体的なヴィジョンに欠ける蓮冶と、具体的な将来のために現在の居場所から離れようとする京介の違いがここでは端的に表されています。


「Two.Only two.」。前回の記事でも書いた通り、この作品ではあらゆるものが対になっています。ただ、全4章のうち直接的な対応関係にある第1章と第2章ではなく、第1章と第3章のアニメ化となっているため、この対比構造が若干見えづらいのも確か。アニメ版で一番わかりやすいと思われるのは以下の対比でしょう。
第8話より、優子とみやこの会話シーン。

「あなたは温もりを知っています。優しさに触れた記憶があれば、間違った道を選ぶことはありません」
「そんな遠い記憶、憶えてないよ……」
「でも、思い出したのではないですか?」

続けて第9話より、火村と蓮冶の会話シーン。

「何で寂しいって感じるか、わかるか?」
「ひとりぼっちになるから?」
「それは結果にすぎない。もっと根源だ」
「じゃあ……楽しかったから?」
「そうだ。楽しさを知って、初めて寂しさを感じる。反対に不幸を知って、初めて幸せを実感する」(中略)「お前達は、自ら寂しさに足を踏み入れた」

未知の感情を知ることの肯定的な側面を語る優子と、否定的な側面を語る火村の対比。この他の対比は物語が完結してから語ることにしましょう。



以上で例として挙げたカットはどれも、単独ではそれほど重要な意味を持ちません。前後に接続されるカットと合わせたシークエンスとして考えた場合、あるいは20分ひと続きの作品、12話でひとつの作品として見た場合に初めて意味が生まれます。
この話は『CLANNAD』についての記事のコメント欄で話した「アニメを見るときに重視するのはシノニミィか、それともアレゴリィか」という話題と繋がりそうですね。
『CLANNAD』のリズム−映像作品の強度と鋭さ−
詳しい内容はリンク先を読んでもらうとして。シノニミィ的な表現がその表現内容と一致するのは、そこに同時性の関係があって時間的な隔たりがない場合に限られるのに対し、アレゴリィ的な表現はその根源的な構成要素として時間性を持っています。もちろん『ef』においてもシノニミィ的な表現・アレゴリィ的な表現の両方でバランスを取っているのですが、後者を強調する方が作品の本質に迫れるのではないか、と僕は考えます。


ところで、『ef』に対する批判的な意見の中には「動きが少ないのは制作費をけちっているから」とか「頑張っている他の製作会社が可哀想」といったものが多く見られます。それに対する僕の考えは「それが全て事実だったとして、だからどうした」。
最近書いたばかりですが、もう一回書いておきましょう。
読者は作者を志向する。だから、時間をかけて作ったもの、お金をかけてつくったものに残る「努力の跡」を評価したくなる。
けれども、読者は読者であって、究極的な目的は作品を見ることにある。作者について知ることも、製作の裏事情を知ることも、全ては作品固有の探求に送り返されてこそ意味がある。作者に同情したり、簡潔な表現を「手抜き」と非難して作品評価を歪めたりするようなことは本末転倒だ、というのが僕の考え。
絵画に例えると、文人画家の多くは余白の多い構図を好みましたが、それを「手抜き」と言う人はほとんどいません。一方、同じ文人画家でも富岡鉄斎なんて画面を墨で埋め尽くすような風景画を多く残しましたが、下手なものは「墨猪(豚のように締まりのない墨の使い方をする人)」と呼ばれるくらい下手(上手いものは上手い)。狩野派で言えば、永徳のような画面を突き抜ける巨木表現も面白いけど、コンパクトに収めて余白を強調する探幽・尚信の表現も面白いよね、みたいな。
アニメの話から遠くなりましたが、「中の人などいない」という話。


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『ef - a tale of memories.』が面白い!その3〜繰り返される「おとぎ話」〜 - tukinohaの絶対ブログ領域