戦前の列車の中はすっごく汚ないっ!

『写真週報』206号より

前々から探していた写真をやっと見つけた。記事は、社内で出る弁当の空き箱を再生利用する……という節約記事なのだが、それよりも驚くのは、通路にうずたかく捨てられた弁当の空き箱のキタネエこと。

こんなに汚い列車にはぜったい乗りたくないが、にもかかわらず写真の紳士たちは平然と乗れているのはナゼなのか。ここから「戦前の日本人は公共マナーが全然ダメ」と結論づけるのはやや短絡。そうではなくて、自分で食べた弁当ガラは自分で捨てる――という最低のルールはあくまでも戦後的平等主義の産物であって、戦前の行動規範ではなかったのではないか。ゴミを片づけるのは駅員やゴミ屋・汚穢屋の仕事であって、客は手を汚すものではないという、カースト制度にも似た傲慢な階級道徳があったのではないか――と推測している。



公共道徳は「公共」と名づけられてはいるが、その実は特定の階級・階層内における道徳的規範であると思う。DQN的階層のマナーのスタンダードと、小ブル中産階層のそれとはおのずと異なるように。



昭和16年に「国民礼法」が制定されたのは、特定の階級のマナーを全国民に「強制的同質化」しようとした試みであるように思われてならない(委員会の座長は徳川義親だったしね)。「国民礼法」に付された文部省の序文では、次のように書かれている。

礼法は実は道徳の現実に履修されるものであり、古今を通じ我が国民生活の規範として、全ての教養の基礎となり、小にしては身を修め、家を齋へ、大にしては国民の団結を強固にし、国家の平和を保つ道である。宜しく礼法を実践して国民生活を厳粛安固たらしめ、上下の秩序を保持し、以て国体の精華を発揮し、無窮の皇運を扶翼し奉るべきである。

国民学校児童用 礼法要項』(教養研究会編、同会刊、昭和十六年)より

――結論をはっきり言ってくれているから、付け加えることもないほどである。