福島第一原発事故の精神的被害の補償について

なんか仕事が忙しくなってしまってこちらはしばらく放置していたんですが、こんなご時世だし活動報告ぐらいはしたほうがいいだろうと思い、ぼちぼちやることにしました。
 で、5月16,17日と東京新聞の夕刊に記事を書いたんですが、半分ぐらいに削らねばならなかったので、こっちに元バージョンを載せておきたいと思います。



 福島第一原発事故の被害補償について、現在さまざまな意見が述べられている。その中でも、最近になって精神的な被害の補償をどうすべきかという議論が見られるようになってきた。1999年にJCO臨界事故に巻き込まれた母の精神的被害(PTSD)の問題について加害者のJCOと交渉し、その後2002年から2009年まで損害賠償裁判を行った体験から、今回の事故の精神的な被害の補償をどうすべきかという点について、経過を説明した後に若干の私論を述べたい。
 母はJCOの敷地から約80メートル、事故現場の転換試験塔から約130メートルの地点にあった父の工場で被ばくし、その推定被ばく線量は約40ミリシーベルトであった。
 事故当日(9月30日)の深夜3時ごろ、母は激しい下痢に襲われた。翌日には多数の口内炎が現れた。数日して父の工場は再開されたが、元来仕事好きで、工場の主戦力であった母は寝たり起きたりの状態になり、仕事に行こうとしなくなっていた。今から思えばPTSD患者に典型的な事故現場からの回避症状なのだが、当時はそのような知識も十分持っていなかった。外から見ていると、母はひどい倦怠感に襲われているようで、体を動かすのがいかにもおっくうそうだった。たいていは、パジャマ姿のまま居間で横になっている。
 なぜ母は倒れているのか。JCO事故のせいだろうというのは一番初めに考えた。ところが、国は一貫して「今回の事故は健康に影響するようなものではない」とアナウンスし続けていた。被ばく問題には全くシロウトであった我が家には、それを否定する材料がなにもなかったのである。東海村に設けられた何箇所かの相談窓口で専門家といわれる人に話を聞いたが、みんな「私は今回の事故の何倍も被ばくしているけど、元気に働いてる」と言った。母は報告を聞くと、「これは被ばくのせいじゃないのね」と冷静に言った。
 では、なぜなのか。
十月の末頃から、母は胃の痛みを訴えるようになった。医者に行ってみると、胃潰瘍が3箇所で活性化し、体重も6キロ落ちていた。原子力事故を身近に経験したストレスが母を蝕んでいたのである。だが、原因がわかれば治療すればいいだけである。約2週間入院し、退院時に撮った胃カメラでは、潰瘍はほぼ消失していた。ところが、退院後も、母の様子は入院前と変わらなかった。一日中、パジャマ姿のまま、寝たり起きたりの生活である。そののろのろとした動きが、うつ病になってしまった昔の友人によく似ていたため、精神科への受診を勧めると「うつ状態」と診断され、入眠剤抗うつ剤を処方された。
この状態で約2年半が経過したが、この間一度自殺企投を起こすなど、症状は一向に改善されなかった。そこで東京の専門医を受診したところ「JCO事故によるPTSD」と診断され、通院している病院や主治医もこの診断に沿った治療を行ったため、母は急速に回復した。
 このように原子力事故による健康被害はそれが体のせいなのか心のせいなのかきわめて判り辛く、しかも本人は家族に負担をかけていることから自分から症状を言い出せない。母は家族や従業員は事故現場の近くの工場まで行けるのに、自分だけ行けないことで長く自分自身を責めており、その感情を口にしなかった。無理をして工場に行っていた時期もあり、それが症状を悪化させる原因ともなっている。その上、JCO事故やそれに関連する事柄については想起するだけで精神的な苦痛を受けるので、症状と事故の関係について語りたがらないのである。かなり回復してから、JCOの建物について「悪魔の塔に見えていた」と語り、JCOの近くを通る時はきつく目を閉じてパニックが起こりそうになるのに耐えていたことも分かった。以上の理由で、正確な診断を得るまで2年半以上かかってしまった。
 そこで専門医や主治医に診断書を書いてもらい、事故を起こしたJCOに治療費などの補償を求めたのだが、JCOはまったく応じようとしない。理由は「国が補償するなと言っているから」という信じられないものであった。実は国、すなわち監督官庁科学技術庁は、事故があった年の12月15日に「原子力損害調査研究会」というものの中間報告を行っていたのだが、いわゆる「専門家」が議論したというその報告書では、PTSDやショックによるうつ状態など「心の被害」については「特段の事情がない限り認められない」として切り捨てていたのである。JCOの出してきた回答にはこの報告書からの引用が実に8カ所もあった。
 父はやむにやまれず訴訟を起こしたが、そこにはさらに高い壁が立ちはだかっていた。原子力損害賠償法による「被害者側証明」という原則である。原子力が国策として保護されているため、原子力をめぐる損害については被害者側がその因果関係を証明しなければならず、加害者側はその証明に文句をつけていればいいだけなのである。もし国家が国民のためにあるというのなら、日本で初めて起こった地域住民の被ばく事故で、しかもその地域住民が原子力事故と自分の病の因果関係を証明することがどれだけ困難かを想定するべきであった。8年かかった裁判の結果、裁判長の意見は「もっと高度な蓋然性(確からしさ)を持った」証明をしなければ認めない、というものであった。
 母のPTSDについては、主治医、専門医、通っている病院の院長と、三人の医師が「JCO事故によるPTSD」という診断書、意見書を出し、その因果関係がいかに明白であるかを論じた。小さな町工場の経営者として生涯を送った父は、これで被害が認められないはずがないと言った。しかし裁判長が採用したのは、母を一度も診断したことのないJCO側の一人の学者の意見であった。その学者によれば、原子力事故では人が死んでいる姿などの悲惨な状況を目にするというPTSDの必須条件が起こらないため、PTSDにはならないというのである。この学者も、裁判長も、原子力事故の「見えない恐怖」がどのように人の精神に巨大なストレスを与えるかということについては、まったく感知していないようであった。
 父はこの裁判の結果に無念を残したまま、今年2月に逝った。
 今はまだ明白な形で見えてはおらず、メディアは徐々に福島原発の事故被害者の報道に食傷し始めているが、この事故の背後に僕の母と同じ苦しみを背負った人がたくさんいることは間違いない。その多くは、なぜ自分が苦しんでいるのか、そのような心身の不調が現れるのか、その原因すら全く不明で途方にくれているのではないか。凡庸な結論だが母の事例から考えられるもっとも重要なことは、できるだけ早く専門医の元にたどり着くことであった。そのためにも家族や身近な人間は「自分が大丈夫だから家族も大丈夫だろう」といった思い込みを捨て、できるだけ早く医療機関に当たることが求められる。また、患者はしばしば自分自身を責めてしまい、周囲の無理解がそれに拍車をかけることがあるため、悪いのは本人ではなく病気であり、病気を引き起こした事故なのだという点を明確にさせる必要がある。
 先日、海江田経済産業相は「精神的被害については相当因果関係があれば認める」と述べた。だが、母の事例でも明らかなように、心の被害は目に見えづらく、証明することも困難である。したがって国は、複数の医師の診断書があれば認めるといった、比較的簡素な証明で補償を認めるべきではないか。心身の被害の上に、さらに裁判などの苦痛を被害住民に課してその傷口をえぐり出すようなことは、絶対にあってはならない。