この記事を読んで。
子供を叱る若い母親に言いたい、「お母さん、それは無理です」 JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4149
お盆前に反論記事を書きかけたのだが、間に合わずに帰省してしまった。ゆえにすっかり気の抜けた記事になってしまったが。
この記事の核心部分は、2〜3歳の子どもは約束を守る力がまだないのだから、「約束した」ということ一辺倒で子どもを責め倒すのは無理がありすぎる、ということだろう。
子供は忘れっぽいのだし、おかあさんが赤ちゃんばかりをかまうので、自分のことも見てもらいたくて、つい余計なことをしてしまうんです。それに、叱り方はもっとシンプルにして、最後にはちゃんと許してあげないと・・・。
記事を書いた佐川光晴は家族カウンセラーの中尾英司の次の言葉を引く。
子は親に認めてもらいたいと常に思っている。まず親があるがままの子どもを受け入れるべきなんですよ。(毎日新聞 2010年7月27日 夕刊)
価値観を押し付ける前に子の言い分を黙って聴く。自立する過程を見守ってやる。操縦席に子ども自身を座らせてあげないといけませんよ。幼児期は、だっことおんぶ。抱いて無条件の愛情を示し、目は合わないけれども背中のぬくもりで信頼感を与えることが出発点ですよ。(同前)
ところが、この記事に対するはてなブックマークのコメントは賛否両論のようだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/jbpress.ismedia.jp/articles/-/4149
3歳児をもつぼくは、佐川の主張に対して経験的に反対の気持ちを抱く。2〜3歳児でも約束は守れるからだ。まあもちろん、能力的に絶対にできない約束というものはある。「アイスクリームあげるから、この書類、明日までにパワポに直しといて」。いくら娘が「うん」といってもそれは無理だ。無論、佐川が言っているのはこういう約束ではない。
他方で大いに共感する部分もある。
どこに違和感を抱き、どこに共感するのか。
経験的に佐川の主張に違和感を抱く
まず、経験的な部分から。
うちの娘は、親が時間がないときに限って「これ読んで」と絵本を持ってくる。しかも、やめてほしいというようなクソ長いやつを。
親が「……しょうがないなあ。これで最後だよ。終わったらおフロに入るんだよ」などと約束させると娘はウンウンとうなずいて要求を満たすのだ。
やれやれと読み終わる。ところが、佐川の言う通り、相手はその場さえしのげればいいので、約束なんか守ろうとしない。また別の絵本を持ってきて、「さいご」「さいごのさいご」「いっかいだけ」「これでおわり」。
「さいご」というのを何かもう一度読んでくれる呪文とでも思っているらしい。それ違うから。
もう終わりだよと切り上げようとすると泣いて「よんで!」とせがむ。「さっき『最後』って約束したでしょ」と言うが泣きわめくのである。
最初はたしかにこうである。しかし、やがてだんだんと守れるようになっていく。仕方ねえなと受け入れるようになっていくのだ。もちろん依然ダダをこねて泣くときもあるが。
だから、2〜3歳児は決して約束を守れないわけではない、という経験的な反論がぼく自身の中にまずあった。
佐川の主張の積極的要素――思いを受けとめる
佐川の主張には、
- 大人の一方的な約束を子どもに押しつけない
- 子どもの思いに寄り添い、それに共感する
という2つの要素がある。この要素はどちらも大事なものだ。佐川および佐川が引用した主張のなかで最も積極的な部分はここである。子どもが何を思っているかをまずじっくりと耳を傾け、探ってみる、そしてそれを一旦共感のもとに受け入れてみる――これを出発点(必ずしも終点ではないことに注意)にすることは、保育実践のなかでもよく言われていることだ。以下の文章は、ある保育園での保育実践の記録の一文である。
子どもは、向きあって、思いに共感しないと納得しません。特に一歳児期では、納得していないままだと、一見切りかえたように見えても違う場面で「ダダコネ」のように出したり、モヤモヤした気持ちから友だちにあたってトラブルになってしまうことがあります。
解きほぐしていくと、「あ〜、やっぱりこれが納得できてなかったんだね」と結局最初に立ち戻ることになるのです。次の生活の流れに急がせたり、あせらせたり、次に進めようとせず、その子のそのときの気持ちをのがさないように対応してきました。(市橋空・清水夕香「イヤイヤ」の意味を探って/「ちいさいなかま」2010.5所収)
大人は社会のルールや制約、都合という規範で頭がいっぱいである。ふつうはその角度から子どもに接する。子どもにとってはこうした規制は、むろん外的なもの、外側から押しつけられたものとして現れる。
たとえば、ぼくの娘の例で言えば、家族は親の労働で生存しているのだから勤務時間は守られねばならず、出勤時間まであとわずかになっている状態で、絵本をこれ以上読む訳にはいかない――という制約がまずある。「絵本を無限に読むことはできない。この1冊を最後にする」というのは、子どもにとっては、社会の都合でつくった、外側からのルールである。おそらく、なぜこの1冊で終わらねばならないのかを合理的に完全に理解することは3歳の子どもにもかなり困難なことだろう。*1
絵本が読みたい、今読みたい、11ぴきのねこがアホウドリを丸焼きにしようとしてしくじるシーンが今ここですぐ見たい、という切実な気持ちだけが自分の頭を占めている。そのことで頭はパンパンである。そこへ大人が勤務時間の厳守の話なんてしたって聞く耳なんかもちゃしねー。そこでいったん相手=子どもの気持ちになって、その思いを受けとめてみる、ということが非常に大切になってくる。
どうして読んでくれないの!? ひどいじゃん!!
「読めない」だなんて……あたしは読んでって言ってるでしょ!?
これが娘の脳内なのだ。「まず親があるがままの子どもを受け入れるべき」「価値観を押し付ける前に子の言い分を黙って聴く」という中尾=佐川の主張とはここで交差することになる。「そうか、すごく読みたいんだね」という共感を言葉や態度にしてみる、ということである。
滋賀大学教授の白石恵理子は次のように指摘する。
お母さんから「お片づけしようか」と言われて、お母さんが言うこともわかるけれど「私は、もっとあそびたいのよ」になるので、そう簡単には言うことを聞いてくれないのです。あるいは、もっと電車を見ていたいのに「もう帰るよ」と言われて、ひっくり返って怒ることもあります。こうした自己主張に対し、おとなは「もっとあそびたかったね。じゃあ、あとひとつね」とか「また、あしたみようね」などと声をかけます。もちろん〔1歳半では――引用者註〕、「ひとつ」や「あした」が理解できるわけではないのですが、おとなから一方的に、いわば「上から目線」で言われるのではなく、自分の気持ちをちょっと受けとめてもらえたと思えると、少しずつおとなの言うことも受け入れようとしてくれるようになります。
また、「このパンツをはこう」と一つしかない答えを押しつけられることに対しては、「イヤ」としか出せません。「どっちのパンツにしようか」とか、「シャツから着ようか、パンツからはこうか」とかいったように、子どもと相談していくことも大切です。選択肢があるほうがうまくいくよ、というハウツーとしてではなく、「こっちでなく、こっちにしよう」などと子ども自身が自分で選んだり、自分で決めたりすることを大切にできたらと思います。
こうして、ゆっくりと言い聞かせたり、相談したりすることは、おとなもエネルギーを使うのですが、そのやりとりこそがとても大切なのです。できるだけ、力ずくで子どもをおさえつけてしまわないよう、お菓子やモノでなだめてしまわないようにしたいものです。
(白石恵理子「『イヤイヤ』、ダダコネをどう受けとめる?」/前掲所収、強調は引用者)
共感や思いを受けとめながら、「相談」することが抜けている
しかし、読んでもらえばわかるように、子どもの思いを受けとめる、ということは、子どもの要求を無条件に受け入れるということではない。実際せっぱつまった出勤前にそんなことできるわけがないだろ。
相手の気持ちをさぐって、それを正しく射当てた後、その気持ちと、従うべき社会のルールや大人の都合と「相談」するというプロセスが必要なのだ、ということである。当たり前の話であるが、人間が自立していくうえで、自分の欲望と社会のルールとの折り合いをどこかでつける、という訓練をしていかなくてはならない。佐川は、それを大人の都合で一方的に強制するな、と言いたいのだろうが、佐川の文章を読んでいると、2〜3歳児では規範に子どもを従わせるという行為ができないかのような印象を受ける。
だが、能力はある日突然に必要な水準に達しているものではない。まだ難しいかなというような地点から徐々に衝突を繰り返すなかで学びとり、つかんでいく、としかぼくには思えない。
なるほど佐川が批判している「若い母親」にはたしかに共感的態度がたりないように思われる。しかし、子どもに約束という形で規範を教えようとする態度は、しないよりはよほどいいのではないか、とぼくには思える。しかも怒鳴るのではなく諄々と言葉で説こうとするその「若い母親」は十分に出来た人であるように感じられた。二十代前半に仮にぼくが子をなしたとして、果たして同じように接せられたかは実にあやしいものである。
もちろん、きょう、子どものダダコネと三〇分つきあったからといって、あしたからすっと動いてくれるようになるわけではありません。でも、エネルギーを使って子どもに向きあったことは、必ず、二年後、三年後に生きてきます。子どもは「ダダコネ」でおとなとぶつかることによって、相手は自分と違う思いをもっていることに徐々に気づき、また、すぐに要求が満たされないからこそ、「自分はこうしたいんだ」と自分の思いにより気づいていくことになります。
こうして相手と自分をより深くとらえるからこそ、幼児期後半になるころには、自分の気持ちと異なる思いとぶつかっても、納得して折りあいをつけることができるようになっていくのです。
(白石前掲)
とかいいつつ紙屋研究所の実態は
などとえらそうなことを書いたり引用したりしているぼくであるが、そんな共感など示している時間がいつもあるわけではないから、時間がない朝などは絵本の場合、
「そうか、プー子(娘の名)はもっと読みたかったよね。じゃあ、夕方いっぱい読んでやるよ」
「いやだ。今読む」
「もうこれで最後って言ったよね。だからもうこれで終わり」
「いやだいやだ。今読む」(泣いている娘)
「プー子、さっき約束したでしょ」
「いや!!!」
「……あと10数えるうちに出かける準備をして。そうしないとお父さんはキョウセイシッコウします!」
「いやだ!」(指を吸ってふて寝)
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……ブッブー」
といって、泣きわめく娘のクツをもって娘を抱きかかえて自転車に無理矢理のせ、暴れるのを力ずくで抑えて猛スピードで危険な登園をするのであった。何が「思いを受けとめる」だ。
*1:佐川の「約束」の問題と、ぼくがここで書いている「ダダコネ」の問題は別の問題ではないかと思う人がいるかもしれない。「約束は時間を経た後での履行を迫るものだから能力的な無理さがある」などの反論だ。しかし、昔した約束だろうが今した約束だろうが、大人が守るべきだとして子どもに遵守をさせようとしている社会ルールの意味を合理的にかつ十全に理解することなど2〜3歳児には不可能である、という点では同じだ。