(2009-08-10)【著者さんと】ルーマン・フォーラム:毛利康俊論文集合評会【語ろう】

2009年8月10日に開催した「毛利康俊論文集(出版前)合評会」の配布資料公開を追加id:contractio:20090810#p1)

公開済みものもの:


なお、この検討会のあとで、次の論文が公開されています:

検討会(報告要旨)再訪/再考:〈記述的論証理論/規範的論証理論〉なる対比について

上掲報告要旨たちを割り付けしつつ考えたことのメモ。


阿部さんからは、次の質問が提出されていたのだった。

今後ルーマン派はどう 規範性Normativität 問題にとりくんでゆくのだろうか?

http://socio-logic.jp/lrev10mouri03.php#toc3
念のために、あたりまえ過ぎることの確認をしておくと。
法は規範的なものである。それに対して「記述的」に向かったとしても、対象(=法)の規範性が無くなる訳ではない。だから、記述的な法理論における「記述-と-規範的なもの」との関係はどうしても込み入ったものになる。
けれども、この事情は、社会学にとっては──「法」を相手にする場合にだけ特別に直面する事態ではなく、むしろ──ありふれた事柄である。
そうである以上、〈記述的 v.s 規範的〉という対比は、こうした議論をするためには──「それだけ」では──ほぼまったく役に立たないものだと思う。


さて。
この論点については 検討会当日にはほとんど議論が深められなかったのだが、改めて 自分が提出した報告要旨を見てみると、私はすでに これに関わる論点を一つは提出していたのである。

そしてまた、やはり再読してみると、小宮報告の最後の部分で ハートの『法の概念』(ISBN:B000J9ITSW)*を引用した上で提示されている議論も、目下の論点に関連付けて議論することができたはずであった: http://socio-logic.jp/lrev10mouri02.php#toc5


すなわち私は、『社会の法〈2〉 (叢書・ウニベルシタス)』第8章「論証」I & II節の議論のアウトライン(要約)*を提示したうえで、

  • 社会学的観察は、このような意味でそもそも「論証について規範的な主張を為す」などということを目指していない。
    逆にいうと、実践哲学的な論証理論のほうも、「実際に実務家がおこなっている論証実践をちゃんと記述しよう」などという目標は持っていないのでは?
    なので、そもそも両者は「ライバル」の関係にはない。

[...]

  • →法実務家にとって、「自分たちが実際にやっていること」をよく見もしないでおこなわれる論証理論による「べき論」が、「外在的で迷惑な建前論」として受け取られることは大いにありうること。
    逆に、法実践の的確な社会学的・経験的記述を為しうるなら、法実務家の反省に役立つことがありうるはず。(→社会学的啓蒙)
http://socio-logic.jp/lrev10mouri00.php#toc28

と書いていたわけである。


この点を(自分で)ちゃんと拾い上げて、次のような形で提題しなおせば、もうちょっとまともな討議ができたかもしれない:

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