『吾妻鏡』建長5年(1253)10月1日条
今まで検討してきた「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」が出された時の『吾妻鏡』をみておこう。
原文。
一日丙午。翎。今日。奴婢雜人事被定法。付田地召仕百姓子息所從事。雖經年序。宜任彼輩之意云々。又被施行新制法。今日以後。固守此旨。不可違犯之由所被仰下也。就中法家女房裝束事。五衣練貫以下過差可停止事云々。
読み下しと解析。
一日丙午。晴。
A 今日、奴婢雜人の事、法を定めらる。田地に付きて百姓の子息・所從を召し仕うの事。年序を経るといえども、宜しく彼の輩之意に任すべしと云々。
B 又新制の法を施行せらる。今日以後、固くこの旨を守り、違犯すべからずの由仰せ下さるところ也。就中法の家女房の裝束の事、五衣は練貫、以下は過差を停止すべきの事云々。
この日に二つの法令が定められたようである。Aのところで言及されているのが、今まで検討してきた「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」であることは言うまでもない。Bの方は該当する法令が『中世法制史料集』第一巻には見当たらず詳細不明だが、弘長元年(1261)2月20日、全61カ条からなる「関東新制条々」(追加法337〜397)の中の「衣裳事」(追加法365)に「建長同」として「諸家女房」の装束に関する規定があるので、それであろう。
Aで目につくのは、「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」の中でも「奴婢雑人事」(「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」9 追加法291 - 我が九条)にスポットが当てられていることである。少し条文名が異なるが、中身は同じである。要するに地頭が「百姓」の「子息・所従」を式目41条の規定を悪用して自分の「所従」としてしまうことを禁止しているのである。
この一連の「諸国郡郷庄園地頭代、且令存知、且可致沙汰条々」の法意が、地頭代による「百姓」もしくはその「子息・所従」の私有財産化を防ぐことにあることから、その中でも「奴婢雑人相論事」という条文を挙げたのであろう。
問題は「百姓」の「所従」化という地頭代による「非法」を禁止し、「撫民」を掲げた鎌倉幕府の意図及びその意味はどのようなものであったのか、ということである。私はこの一連の法令こそ、鎌倉幕府が「国家」になる過程の一つであった、と考えている。「組織された強制力」だけで国家になるのではない。本来南関東に成立した「組織された強制力」でしかなかった鎌倉幕府がいかにして「国家」となったのか、という問題を考察する鍵である、と個人的には考えている。この辺に関してはじっくりと考えていきたい。