アパグループ第2回懸賞論文最優秀賞(追記あり)
http://www.apa.co.jp/book_report2/index.html
できたばかりで歴史のない賞というのは賞が受賞作にお墨付きを与えるというよりむしろ受賞作によって賞の値打ちが決まるものですが、アカポスを持っていて*1なおアパグループの懸賞に応募する人がいるというのは驚きです。まあ審査する側にも上智大学名誉教授とか拓殖大学大学院教授が並んでいるわけですが。
さてその第2回最優秀賞受賞作、タイトルの「天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?」を目にしたときには「現憲法下でも天皇は主権者である」という主張が展開されているんだろうと期待しました。あるいは「明治憲法下においても天皇は主権者ではなかった」と主張しているのでは、と。それくらいでないと第1回受賞作のぶっ飛び具合に比肩できないじゃないですか。ところが、実際に読んでみると・・・・・・。
確かに、現在の憲法において天皇は政治の意思決定に関与することはできない。だから、もし帝国憲法において天皇が専制君主として自由に政治を決定する立場にあったという極端な仮説が正しいなら、「主権者から象徴に転落した」という表現は正しいだろう。
帝国憲法下においても、天皇には国策の決定に関与する実質的な権能は無かったのであるから、まして天皇の専制政治は行われていなかった。ならば「主権者から象徴に転落した」という表現は俄かに怪しいものになる。
ずいぶんとスケールの小さなはなしになってしまってます。言うまでもなく、「天皇が専制君主として自由に政治を決定する立場にあったという極端な仮説」なんぞを立てなくても「明治憲法下では主権者は天皇であった」という主張は成立するわけですが。あやしげな「実質/形式」論を糊塗するために使われているのが、「転落」とか「(象徴)に過ぎない」といった、ある種の人びとにとっては「天皇」という語とセットで用いることに抵抗を感じる単語をことさらに強調してみせるチープなレトリックです。
多少目新しいかなと思われるのは、「明治二十二年に帝国憲法が発布されてから現在までの我が国の憲政史上において、天皇が直接国策の決定を下したのは、昭和二十年の終戦の御聖断のただ一回だけである」という主張でしょうか。昭和天皇本人でさえもう一つ二・二六事件の折のことを挙げているのですが。しかし重臣や軍部の一部が練ったシナリオに乗っかって裁定を下した「御聖断」をもって「直接国策の決定を下した」と評するのであれば、同様に記述しうる事例は他にいくつもありますから、その意味では昭和天皇免責のために普及したフィクションに乗っかった、新味のない主張と言うべきでしょう。
追記:もう一つ、この受賞作のチープなレトリックを指摘しておくとあれですな、「真実は隠されていた!」という例のやつです。しかしこの論文?において事実に関して新しく発掘されたもの、あるいはあまり認知されていない(or 重視されていない)ことに新たな光をあてた、といったものはただの一つもありません。
帝国憲法第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記すが、これは天皇が自由に政治 を行うことを意味しない。第五十五条が、国務大臣が天皇を輔弼して政治責任を負うべきことと、法律・勅令などは国務大臣の副署を必要とすること等を記す他、第五条は、天皇は帝国議会の協賛により立法権を行使することを明記する。また軍令については統帥部の長が天皇を輔翼してその責任を負う慣習が成立していた。このように、帝国憲法下においても現在と同様、天皇は国策の決定に関与する実質的な権能を持たなかった(05)。
これは昭和天皇の戦争責任を論ずる際に「責任はなかった」派から必ずと言ってよいほど出てくるはなしであって、「隠されている」どころか多少なりとも戦前の天皇制について関心をもつ人間全てにとって常識でしょう。「真実は隠されていた!」メソッドを使うなら七平センセのように知らない人の方が多いトリヴィアを枕にもってきて読者を煙に巻く芸は身につけておかないと恰好がつかないんじゃないでしょうか。
まあ注目すべき点があるとすれば、これが「GHQによって我が国体は大きく歪められてしまった」論ではなく「GHQによっても我が国体にはなんの変化もなかった」論だ、というところだろうか。前者は敗戦という事実が前提になっているわけだけれど、敗戦および戦後復興についてのリアルな経験をもたない世代にとっては後者の方が通りがいいのかも。