マクロ経済学は、世の中で最も論争の多い学問分野ではなかろうか。特に、経済政策に関わる意見の対立は、経済学の枠を超え、マスコミや国会を巻き込んだ激しいものになることが多い。近年でも、財政・金融政策や税制改革等に関する論争が、連日マスコミやネットを賑わせている。

 マクロ経済学では黎明期から市場経済を重視する新古典派と、積極的な政府介入を支持するケインズ派の2つの間で激しい論争が繰り広げられてきた。思い切って単純化すると、景気後退は生産力(供給)の低下と考えるのが新古典派であり、需要不足、と捉えるのがケインズ的なアプローチである。近年、これら2つのマクロ経済理論は技術的に急速に進歩し、多くの共通点を持つようになってきている。

 しかし、いまだ、景気循環がなぜ生じるか、政策として何が可能か、という問題に関しては、この2つの対立軸のどちらにどれだけ重心をおくかにより、大きな意見の違いが生まれてしまう。新古典派の立場からは、大規模なマクロ経済政策はリーマンショックや震災のような深刻な危機の時のみに正当化され、ケインズ派では、より頻繁に政府が介入するべき、ということになる。

 最近の「異次元の金融緩和」に関する論争には、多くの対立軸があり複雑になっているが、純粋な新古典派に従えば、急激な預金引き出しにより多くの銀行が倒産するような、信用危機でもない限り、大規模な金融政策を行う理由はない。

商品の価格は変化するのか?

 ケインズ派の流れを汲むマクロモデルによると、景気後退期に需要不足となる理由は、商品価格が需給を均衡させるように調整されず、変化しにくい、すなわち粘着(硬直)的であることが主な原因である。市場メカニズムが機能していないのである。需給バランスにショックがあり、しかし価格が動かない場合、調整はもっぱら数量でなされ、総生産の変動が大きくなり、時に需要不足となる。

 一方、もしも商品価格が市場を均衡させるように調整されれば、多くのケインズ型モデルは新古典派に近くなり、財政・金融政策の役割はほとんどなくなってしまう。商品価格の粘着性の有無、およびその重要性に関する認識の違いがケインズ派と新古典派の背後にある。無論、価格粘着性以外の要素にケインズ経済学の特徴を求める立場も存在するが、近年の多くのケインズ派モデルは、商品価格が自由に動くならば、景気循環や財政・金融政策の効果に関して新古典派とほぼ同じ結果となる。

 では、商品価格は、実際にはどの程度粘着的なのだろうか?。 この、マクロ経済理論にとって非常に重要な問題は、その重要性にもかかわらず近年までほとんど研究されてこなかった。多くの商品価格データを集めることが難しかったためである。価格の変化しにくさ、すなわち価格の改定頻度に関する包括的な研究は21世紀に入って初めて行われるようになった。そして、その結果は驚くべきものであった。

 2004年に公表されたある研究によれば、米国の大規模なミクロの商品価格データに基づくと、価格は平均して4か月程度で変更されていたのである。当時のケインズ型モデルでは、数年に1度、あるいは約15か月に一度価格が改定すると考えられており、この、4か月に1度価格が変わるという結果は想定よりもはるかに短かった。この結果は学会で注目を集め、商品価格の粘着性の推計はマクロ経済学における一大分野となった。この10年の間、日本を含む世界各国で、経済学者がミクロの商品価格情報の分析に精力的に取り組み、多くの発見があった。本稿では、筆者自身による研究の紹介も兼ね、この10年における商品価格粘着性の研究が見出してきた結果と、残る問題について紹介したい。

そもそも、物価をどう測るのか

 商品価格の粘着性を推計するとき、最初に直面する問題はデータの選択および収集である。私たちは、普段無数の商品に囲まれて生活している。それらすべての商品価格を調べることは不可能であり、いくつかの商品を選ばねばならない。価格粘着性の初期の研究では、研究者が独自に店舗ごとの商品価格を収集していたが、個々の研究者の力ではどうしても一部の商品に限定されてしまい、マクロ経済全体を対象にはできなかった。先に紹介した米国での研究は、経済全体を対象とする政府機関による価格調査、消費者物価指数(CPI)の商品別・店舗別データを用いることで、この問題を解決したのである。

 日本を含む多くの国では、CPIは次のように作られている。まず、家計の支出パターンを調べ、支出の内訳を500種類くらいの品目に分類する。牛乳や米、外食、家賃、などである。次に、各品目から代表的な銘柄を一つか二つ選ぶ。パスタであれば、1000種類くらいある銘柄のうち、300gのマ・マー・スパゲティとオーマイ・スパゲッティが選ばれている。次に、月に一度、12のつく週の水・木・金のいずれかの一日に、全国3万弱の小売店や事業所に調査員が一斉に赴き、商品価格を記録する。

 なお、この際、一週間以内に変化してしまうような特売価格は除外することが、国際労働機関(ILO)の定める国際的なルール(CPI Manual)として定められている。最後に、集まった価格を、消費支出割合で加重平均し、物価指数となるのである。ここで注意してもらいたいのは、消費者物価指数では(1)ごく限られた銘柄の価格のみを調査していること、(2)調査は月に一度だけであること、(3)特売価格は除外されていること、である。

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