今年も高校野球を見ている。
甲子園大会については、そのレギュレーションや放送のあり方について、毎度毎度あれこれと文句をつけている自覚があって、わがことながら、若干、居心地が悪い。それでも、毎年、ほぼ全試合を追いかけることになる。結局、私は野球が好きなのだな。
高校野球の魅力は、毎回、新しい選手のデビューを目撃できるところにある。
たとえば、ダルビッシュでも、田中将大でも、私は、甲子園で投げていた時の姿を覚えている。これは、とても大切なポイントだ。彼らが、メジャーを代表する投手になった今でも、私は、高校時代のピッチングを重ねあわせてゲームを見ることできる。だからこそ、親身になって(具体的には親戚の子供を応援するぐらいな気持ちで)応援できるのだ。
とはいえ、昼間の試合をベタで追って、深夜の時間帯に「熱闘甲子園」をチェックしていると、やはり、色々と言いたいことがこみあげてくる。
縁もゆかりもない他人のやっているゲームなのだし、私が口を出すべき話ではないことはわかっているのだが、それでも、どうしても文句をつけたくなる。
因果な性分だ。
とはいえ、言いたいことの大部分は、野球そのものとは別枠の話だ。
私は、「甲子園に託されている国民感情」があんまり好きじゃないのだと思う。
今回は、その、私があまり快く思っていない「甲子園球児に着せかけられているわれら日本国民の不当な願望」について書いてみようと思っている。
読んで不快になる人もいると思う。
でも、私としては、毎年思っていることでもあるので、書き残しておかないと前に進めない気がするのだ。
大会の序盤で、ある私立高校のマネージャーを扱った記事が話題になった。
記事の内容をざっと紹介しておく。
- その高校では、肉体強化のため、練習中、選手におにぎりを食べさせている。
- その数、まる1日練習の場合は約1000個。普段は200~300個。
- おにぎりを作るのは、女子マネージャーたちの役割。
- 3年生のMさん(18)は、2年間で2万個のおにぎりを握ったという。
- Mさんは、マネージャーの仕事に打ち込むため、最難関校受験の選抜クラスから、普通クラスに転籍した。
と、こういう感じのお話だ。
このお話には、様々な方向から色々な意見が寄せられた。
まず、記事に対する反発の意見は以下の通り。
- 高校生の自己犠牲を美談にするのはいかがなものか。
- そもそも女子がおにぎりを作って選手を支え、男子が前線で競技に取り組むというジェンダーのあり方があまりにも固定的かつ前近代的だ。どうかしている。
- 部活(それも他人の部活)のために進学をないがしろにするのは高校生として本末転倒だ。
- 記事になった美談をアピールすれば、AO入試で合格できるのでは?
擁護する声もあった。
- 本人が自分の意思でやっていることに他人が口を出すべきではない。
- ジェンダー云々の話にしても、強制されているのならともかく、自ら志願して女子マネージャーをやっている高校生の何を批判できるというのか。
- 高校野球はグラウンドに立っている選手だけで成立しているものではない。球拾いの控え選手や、ボール運びの1年生や、裏方のマネージャーや、応援のOBや保護者など、すべての人々の力を結集するところに魅力があり、また、その中でひとつの役割を全うすることの中に本当の学びがある。
と、まあ、こんな感じだ。
私個人の考えを申し上げる。
まず、マネージャーご本人に対しては、どうこう言うつもりはない。
人生の中の2年ほどを、どうやって過ごすのかは、本人の勝手だ。本人の責任でもある。マネージャー業に打ち込んだことの結果を彼女が自分で受け止める限りにおいて、傍観者が口を出す筋合いは無いと思っている。
ただ、マネージャーの生き方や考え方や暮らし方に異存が無いのだとして、記事の書き方には、若干、違和感を覚えている。
理由は、彼女の活動を伝える記事の論調が「美談」に傾き過ぎている気がするからだ。
この記事の場合に限らず、甲子園関連のエピソードを伝えるメディアの送り手には、「美談発見圧力」みたいな力が働いている。
それゆえ、記事を作る人間は、「キラリと光る自己犠牲のエピソード」や、「ハンディキャップを乗り越えて頑張る選手の話」や、「選手を支える親子愛の物語」のようなコンテンツを収集しにかかることになる。
その、「美談」のあまりな美談っぽさに、私は抵抗を感じるわけなのだ。
「美談」は、読者や視聴者の側が、要求しているものでもある。
だから、メディアが一方的に押し付けていると、断定するつもりはない。
それらの「美談」が、「作り事」だとか「ウソ」であると言いたいのでもない。
もしかしたら、細部の描写に若干の誇張が含まれているケースはあるのかもしれないが、21世紀のメディアが拾ってくるその種の「美談」は、大筋として実話なのだと思っている。
事実として、高校野球は、多くの部分において、一生懸命な若者たちの必死の取り組みや、純情な子供たちの力いっぱいの献身によって支えられているところのものだ。その意味で、個々の「美談」がウソだと申し上げるつもりはない。
ただ、あまたある高校生のエピソードの中から、選択的に「良い話」をピックアップすることを繰り返しているうちに、結果として描写される「甲子園球児」の人間像が、彼らの平均的な実態と乖離するということはあり得る。
おにぎりマネージャーの挿話に、一定数の人たちが違和感や気味の悪さを感じたのは、彼女の活動を紹介する記事や放送の行間に現れていた「銃後感」に対してなのだと思う。
現実に、「戦士を支える銃後の女たち」というサブストーリーは、戦いの苛酷さや、青春の残酷や、失われて行く一瞬の夏の物語を描き切るための、不可欠なピースになっている。
ジェンダーを持ち出して非難するまでもなく、古来、男たちの戦いを描くためには、女たちの銃後のシーンを挿入する演出が不可欠だった。つまり、Mマネージャーのお話は、そういう伝統的な「大きな物語」の中の「印象的なワンシーン」として、あまりにもピタリとハマり過ぎていて、そこのところが、なんだかうさんくさく感じられるのだ。
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