レスリングが2020年に開催されるオリンピック(開催地未定)の「中核競技」から外された件について、私が思うところは、報道の中で既に紹介されたコメントの中にほぼ言い尽くされている。
特に、前段については、テレビのニュースショーに出てきた幾人かのコメンテーターの発言が全面的に代弁してくれている。私から付け加えるべき言葉はひとつも無い。
ここで言う「前段」とは、「レスリングの除外」という第一報を受けて抱いた最初の感慨、および、かかる事態を招いた原因についての当面の分析といったあたりまでの話を意味している。
つまり私は、レスリングが五輪競技から排除されようとしている現況について、「驚愕」し、「落胆」し、「動揺」しており、このような事態を迎えるに至った原因については、競技団体およびJOC(日本オリンピック評議会)の怠慢にその責を求めるべきだと考えている、ということだ。
伝えられているところでは、五輪への道は、まだ完全に閉ざされているわけではない。
わずかながら、復活の可能性はある。新聞にはこう書かれている。
《今回のIOC理事会で決定した25の「中核競技」と、16年リオデジャネイロ五輪から採用されるゴルフ、7人制ラグビーの計27競技は20年夏季五輪の実施が決まった。残りは1枠あり、今年5月にロシア・サンクトペテルブルクで開かれるIOC理事会で、今回漏れたレスリングに加えて野球・ソフトボール、空手など8競技から、1競技または複数に絞り込む。20年五輪の開催地も決まる9月のIOC総会(ブエノスアイレス)で、候補競技を新たに追加するかどうか、投票で決める。 5月のIOC理事会ではレスリングを含む8競技(野球・ソフトボール、空手など)から20年五輪で実施する1競技を絞り込み、9月のIOC総会で実施競技を正式決定する。》2/13日「日刊スポーツ」より(リンクはこちら)
記事を読む限り、残留の可能性が残されている。とはいえ、前途は大変に険しい。大目に見積もって8分の1。ゼロということもあり得る。どう進むにせよ、厳しい道だ。
ここでは、レスリングという競技自体について書かない。
IOC内部での決定の公正さやその妥当性についても、深追いするつもりはない。
決まったことは決まったことだ。
五輪という枠組みが、交渉と合意を通じて形成される一種のゲームボードである以上、そのボードに乗るメンバーは、決定に従うほかに選択肢を持たされていない。
つまり、手も足も出ないということだ。
厳密に言えば、ひとつだけ、特別な選択肢が残されてはいる。前の戦争の時に国際連盟を脱退したように、五輪というちゃぶ台そのものを蹴飛ばして、ボイコットする道だ。その道を選んだ場合は、あらゆる競技が参加不能になるわけだが。
私が今回の決定の経緯を通じてあらためて感じたのは、われわれ日本人の国際交渉能力の欠如についてだ。
なので、今週はその話をする。われわれが、国際舞台での外交交渉を苦手としているのはなぜなのか。これまでに繰り返してきたような失敗をしないためにはどうしたら良いのか。そのあたりについて考えてみたいと思っている。
答えが出るのかどうかはわからない。
が、答えが見つかりにくい質問であればあるほど、問いを立てる価値が高いということを、どこかの偉い人が言っていたはずだ。
誰だったのかは忘れた。
私かもしれない。
ともかく、最初に言ったのが誰であるにせよ、私は、彼の意見に同意する。
答えが見つかることがあらかじめわかっている問題は、受験生の皆さんにまかせておけば良い。われわれ大人になった人間は、答えが見つからない問題に取り組まなければならない。
わが国の国民が交渉事を不得手としている点については、おそらく、ほとんどの同胞が同意してくれるはずだ。
かえりみれば、直前まで名古屋で開催されることが決定されているかに見えた1988年の五輪大会は、土壇場でソウルに持って行かれた。この種の苦い記憶を、私のような古くからのスポーツファンは、山ほど胸のうちに蓄積している。
2002年のサッカーW杯では、最後の最後で、韓国との共催をのまされることになった。
まだある。
自動車レースのF1では、ホンダがコンストラクターズポイントで圧勝した翌年にレギュレーションの大幅な見直しが行われた。スキーのジャンプ競技では、日本人選手の好成績が続いたシーズンの後、スキー板の長さについての規定が体格の大きな選手に有利な方向に改訂された。このほか、水泳の泳法についての細かい取り決めやフィギュアスケートのポイント設定などなどでも、われわれは、いつも損なルールを呑み込まされてきた。でなくても、少なくとも、われわれ自身はそういうふうに思い込んできた。なぜ日本人ばかりがひどい目に遭うのか、と。
ここのところはなかなか微妙なポイントだ。
われわれ日本人が、国際大会の運営やルールの改変に関連する場面で、本当に損ばかりをしてきたのか、あるいは、損をしたことばかりを覚えていて、得をしたケースについては見て見ぬふりをしているということなのか。
事実関係をここで明快に判定することはとても難しい。
が、少なくとも、わたくしども日本人は、自分たちが損をしてきたというふうに考えている。そのことだけは確かだ。事実関係がどうなのかはともかくとして、われわれは、「日本人は損をしている」というふうに考えることを好む国民ではあるわけなのだ。
もう少し突っ込んで考えてみよう。
思うに、日本人が、何かにつけて、自分たちの「押しの弱さ」や、「人の好さ」や、「潔癖さ」を言い立てて、それら民族固有の性質を理由に、自分たちが「交渉下手」である旨を自己申告したがる背景には、われわれの中に根を張っている、「美意識」のようなものがあずかっている。
その「美意識」とは
「だますよりはだまされる方が良い」
「正直が一番」
「たとえ損をしても、汚いことはしたくない」
といったような感じの、ひところ流行った人生訓つきの絵皿に書いてあるみたいな俗流人生哲学だ。
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