テレビ東京が社運を賭けてプッシュしていた「世界卓球」は、あんまり盛り上がらなかった。残念。個人的には、面白く観戦していたのだが。
放送を見ていて思い出したことがある。私には、卓球部員だった過去があった。そう。中学生になってすぐ、私は、卓球部に入部したのだ。
体育館の壁に立てかけられている卓球台を見て、ガキだった私は
「おお、卓球部に入れば毎日ピンポンで遊べるぞ」
と考えた。
その愚かな目論見は、入部したその日に瓦解する。
新入部員は、一日中素振りばかりやらされることになっていたからだ。
私は、2日ほどで退部した。ほかの幾人かの惰弱な仲間たちとともに。「ちぇっ」とか言いながら。
いまにして思うのは、あの、無意味に思えた素振り練習にもきちんとした役割があったということだ。
フォームを固める?
まあ、そういう効果はある。全身を使ってラケットを振る感覚を覚えることは、ある意味、実際にピンポン球を打ち返すこと以上に重要であるのかもしれないわけだから。特にビギナーにとっては。
が、真の狙いは違う。
素振り練習を通じて得られる結果のうちで、最も有効なものは、「根性の無い部員を退部に追い込める」ということだ。そう。素振りは、初心者の部員に基礎技術をもたらすための試練である以上に、こらえ性の無いタイプの人間をいぶり出すための、一種のリトマス試験紙として機能していた。で、私はいぶり出されたわけだ。巣穴の中の子狐みたいに。
ブラスバンド部が採用している「ロングトーン」(←音階を吹く前に、管楽器のマウスピースの部分だけを与えて、一日中息の続く限り同じ音を吹かせる練習)も、意図は同じだ。
もちろん、安定した吹奏技術習得のためには、しっかりとしたロングトーンを身につける必要があるのだろう。が、主たる狙いは別にある。やはり、吹奏楽部もまた、ちゃらんぽらんな部員が貴重な楽器をいじくりまわすことを嫌う組織ではあるわけで、それゆえ、彼らは、楽隊の音楽的水準を保つためにも不良分子をすみやかに排除したいと願っている。で、そのためには、一年生を半月ばかりマウスピースとともに放置しておくのがちょうど適切な試練になるのだな。
事実、私は、入部さえしなかった。卓球部をやめた後に、器楽部にはいろうと思っていたのだが、ロングトーンの練習風景を見て断念したのだ。
「冗談じゃない。誰があんな軍楽隊みたいなとこに行くものか」
と。
正しい選択だったと思う。私のためも、器楽部のハーモニーのためにも。
……と、ここまで書いていて思い出したのだが、私が新入社員であった当時に受けていたあの退屈な研修もまた、素振りや球拾いやロングトーンと同じタイプの一種の通過儀礼で、真意は、ふるい分けにあったのかもしれない。
で、私は、実の入っていない籾が水面に浮かび上がるみたいにして、まんまと正体をあらわしたわけだ。自業自得だが。
でもまあ、象の鼻が長い理由は象にはわからないし、彼の罪でもない。「そうよ母さんも長いのよ」という以上の説明もできない。だからこそ、「性格は別の言葉でいえば運命だ」と、ソール・ベローは言ったのであり、私はあぶり出され、いぶり出され、いびり出されたのである。
それに、象が鼻を切ったら、たぶん豚みたいなものになる。耳の大きな豚。しかも飛べない。私は、何を言っているのだろう。
さて今回は、「アナロ熊」を取り上げたいと思う。
ええ、あんまり面白かったので、スルーできませんでした。勘弁してください。
こういう@2ちゃんねる発の悪ふざけみたいなものを、公式のメディアで紹介することの是非については、さまざまな意見があると思う。
私自身、@2ちゃんで発生している不謹慎な動きを全面的に擁護しようとは思っていない。尻馬に乗るつもりもない。
でも、面白いものは面白い。こればかりはどうしようもない。
それに、面白いものには面白いだけの理由があって、その面白さを観察すれば、それなりに見えてくるものもあるはずなのだ。
今回の例でいえば、アナロ熊は、地デジ化推進運動の背後にある暗部を見事に暴く役割を果たしてくれている。
ブラスバンド部が新人に課す一見無意味なロングトーン練習が、真摯に努力しない人間を顕在化させる効果を持っているのと同様の理路において、一見不真面目な熊の絵にしか見えないアナロ熊は、それを扱う人間の品性を判定するセンサーとして機能する。そういうことだ。
まず、イラストを見てほしい。
ここに描いた「アナロ熊」は、代表的な様相の一つではあるが、アナロ熊のすべてではない。
というよりも、アナロ熊は、出自がパロディであるだけに、もともと、定まったカタチを持っていない。言ってみれば、電脳空間を徘徊する人々の集合無意識が具現化した、白日夢みたいなキャラクターなのだ。
であるから、それは日々刻々と変化し、観察者の立ち位置次第で、全然別のカタチに見えたりする。
詳しくは以下のサイト(一時期「公式サイト」とされていた)から辿った先のリンクを巡回してみてほしい(リンクはこちら)。
スーパーリアリズム、写真コラージュ、アスキーアート(文字を使った絵画)、メルヘン調、萌えイラスト、プー風味……と、あらゆるタッチの熊イラストに出会うことができるはずだ。
アナロ熊は、「2011年7月 地デジ化延期」を目指すアナログキャンペーンのキャラクターということになっている。
が、そんなご大層なものではない。
要はパロディ。ないしは、悪ふざけだ。意図なんか無い。理念や決意も抱いていないし、覚悟だとか哲学といった種類のナニモノとも無縁だ。
しかしながら、不特定多数の人間の間で継続的に展開される悪ふざけは、ある段階を過ぎると、一定の批評性を獲得することになっている。というよりも、批評性を欠いた悪ふざけは、長続きしないものなのだ。その意味で、発生以来無数の追随者を生み出しつつあるアナロ熊は、正しく批評的な熊だということができる。
批評と言っても、公式的な意味でいうところの、正統な批評とは違う。
批評家が個人の責任と見識において公表する批評は、ある事象を、ある特定の視点から切り取ったひとつの断面を提示している場合が多い。
つまり、確固たる「目」(批評眼:これについて、筒井康隆は「あえて特別な名前がついているところからすると、普通の人の目とは違うものを見ているのであろう」と言っている)の存在が、批評を批評たらしめている、と、そういう構造になる。
不特定多数による批評の場合、生成過程がちょっと違っている。
不特定多数の人間(それも匿名)による批評は、より多様でより微細でより断片的な印象の総和としてネットのようなメディアに姿を現すことになっている。つまり、ひとつひとつは身勝手な捨て台詞でしかない言葉でも、何万人の声が集まると、それはひとつの意図として動きはじめるのだ。
だからたとえば、「地デジカ」の誕生に至る一部始終を見ていた人々の感慨は、地デジカを主食としてバリバリ食べてしまう大食漢の熊のカタチで具現化することになるわけで、とすれば、アナロ熊は、思いつきのいたずらではあっても、あるいは思いつきのいたずらであるからこそ、深刻な批評性を孕んでいるのである。
いずれにしても、実態に即したカタチで解説するなら、アナロ熊は、「民放連のメディアリテラシーの低さを揶揄するべく誕生した、ネット発の嘲弄キャラ」ということになる。
嘲弄。
21世紀メディアの主たる(あるいは唯一の)機能。
ムカつくけど面白い。
経緯を説明する。
1.地デジ大使、クサナギ剛氏が、公然わいせつ罪で逮捕。大使職を辞することに。
2.空位となった大使に代役を立てるのかと思っていたら、どっこい民放連は、「地デジカ」というゆるキャラを持ってきた。
で、
3.鳩山総務大臣とともにひとつのフレームに収まった写真がプレスリリースされた。
素晴らしい。
ここまでは良かった。
というよりも、率直に言って私は、「地デジカ」を推し立てた人々の対応の素早さと、その手腕に感心した。
「地デジ大使」については、あわてて代役を立てたところで、簡単に適役が見つかるとも思えなかったし、なにより、新しい大使のために新しいギャラが発生すれば、総務省なり民放連なりに非難が集中することは明らかだったからだ。とすれば、「新キャラ無し」で行くのはひとつの見識だったし、シンボルとして、ゆるキャラを持って来ることも、必然であった。
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