ここまでアベノミクスが上手くいっていながら、そのまま保とうとはせず、一気の消費増税という、すべての成果をドブに捨てるようなことをしてしまう。それは、なぜだろうか。そこには、需要を抜いても経済には決定的な悪影響はないという極めて強固な思想がある。普通の人には奇妙に聞こえるだろうが、これは「合理性」に基づくものなのだ。
………
現在の経済学の基礎には、人は利益を最大化するよう行動するという「公準」がある。「公準」とは、すべての理論の基礎となる前提のようなものだ。そして、この前提に立つと、合理的な人は、資金や労働力が余ってムダになっている状況を放置したりせず、必ず、それらを利用し、生産を増やして利益を得ようとするだろう。そうすると、世の中には余資も失業もあり得ないことになる。
この理屈は、世の中に不況は存在しないと言うようなものなので、普通の人にとっては、「まさか」という話である。現実に、超低金利でも資金がダブつき、多くの若者が職を得られないで困っているのに、これは、一体、何だというわけである。そして、生身の人間は、そこまで合理的ではない、だから、経済学は現実から遊離している、となるのだが、こうした批判は、的外れなものである。
なぜなら、経済学は、合理性について、「常に」実現しているとは、主張していないからだ。余資や失業は、ままあることで、ただし、それが「いつまでも」放置はされないと言っているに過ぎない。もし、それが続くなら、利益が得られる機会があるのに、誰も乗じないことになるので、それこそ、あり得ない話でしょうとなる。経済学の理屈は、なかなか強力なのだ。
こうしたことから、不況に対する経済学の処方箋は、合理的な行動を阻害している「何か」が問題にされるところに行き着く。具体的には、金融緩和が不十分だとか、法人税が高過ぎるとか、規制が強すぎるとか、適切な賃金を受け入れないとか、そういったものが候補に並ぶ。いずれも、投資の収益性を高める政策であり、それらを、痛みを恐れず果断に行えば、不況は解決されると説くのである。
その一方で、需要を与えることについては、不合理な政策として忌避される。仮に、需要を与えて、それに応じて設備投資が増えるとすると、設備投資そのものによる需要によって、更に設備投資が出て、拡大が止まらなくなる。逆に、需要を抜くと、どこまでも設備投資が減り、放置される余資と失業は増えるばかりだ。こうしたことは合理性に反するから、起こらないものとされる。そうならないのは、金利が正しく導いてくれるからである。
結局、人は合理的に行動するという考え方を受け入れると、金融緩和と法人減税で投資の収益性さえ高めておけば、緊縮財政を併せてやっても平気だという結論になる。もちろん、短期的には余資や失業の痛みもあるだろう。しかし、十分に時が経てば、それも解消される。むしろ、緊縮財政によって、金利の高騰を防いでおく方が大切だとなる。
こうした見解に対して、「過去の歴史を調べてみると、どうも財政も大切なようですよ」と言おうものなら、「こいつは合理性というものが分らない輩らしい」と蔑まれることになる。理解力に疑問があると見下される者の意見なんて、聞いてもらえるものではない。せいぜい「ウォームハートも結構だが、財政による痛み止めも大概にしないと、モルヒネ中毒になるよ」と皮肉交じりに返されるのが関の山である。
………
さて、「何か変だ」、そう思うなら、あなたは現実的な人である。「不合理だか何だか知らねぇが、需要もないのに設備投資するバカが居るかい、金利だの税金だのは気にしちゃいねぇや」、「だいたい、投資が投資を呼んだり、不況がどんどん深まったりする方が、よっぼと世の中ってもんだ」、「実際がそうなのに、理屈で無いことにして、どうすんのよ」、「いつか景気が良くなるって、それまでに死んでるぜ」。確かに、そのとおりである。
江戸っ子は気が短いかもしれないが、現在の経済学と思想に異を唱えるには、人が「常に」不合理であるということを気長に論証しなければならない。本当の理論的な課題は、そこにある。「どうすれば経済学」は、それを解くものだ。利益最大化の「公準」は、崩しようのない絶対的なものに思えるかもしれないが、そうしたものさえ、覆されることもあるというのが、数学や物理学の歴史が教えるところなのだ。
(つづく)
※アベノミクスが最後に道を踏み外した理由を探るには、思想的背景から浮き彫りにする必要があると感じている。そして、更にこじらせた状態になる日本経済をどう救うかを今から考えておかないといけない。シリーズで不定期に書いていくつもりだ。
(今日の日経)
ビッグデータで街づくり。業種別GDP四半期で、17年めど。需要が拡大し、売上が増えれば、企業は自然と投資を増やす・吉永富士重社長。リーマン・需要も資金も蒸発、政府が埋めた日銀の外堀。ナゾ科学・クリの渋皮。読書・原敬の大正。
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現在の経済学の基礎には、人は利益を最大化するよう行動するという「公準」がある。「公準」とは、すべての理論の基礎となる前提のようなものだ。そして、この前提に立つと、合理的な人は、資金や労働力が余ってムダになっている状況を放置したりせず、必ず、それらを利用し、生産を増やして利益を得ようとするだろう。そうすると、世の中には余資も失業もあり得ないことになる。
この理屈は、世の中に不況は存在しないと言うようなものなので、普通の人にとっては、「まさか」という話である。現実に、超低金利でも資金がダブつき、多くの若者が職を得られないで困っているのに、これは、一体、何だというわけである。そして、生身の人間は、そこまで合理的ではない、だから、経済学は現実から遊離している、となるのだが、こうした批判は、的外れなものである。
なぜなら、経済学は、合理性について、「常に」実現しているとは、主張していないからだ。余資や失業は、ままあることで、ただし、それが「いつまでも」放置はされないと言っているに過ぎない。もし、それが続くなら、利益が得られる機会があるのに、誰も乗じないことになるので、それこそ、あり得ない話でしょうとなる。経済学の理屈は、なかなか強力なのだ。
こうしたことから、不況に対する経済学の処方箋は、合理的な行動を阻害している「何か」が問題にされるところに行き着く。具体的には、金融緩和が不十分だとか、法人税が高過ぎるとか、規制が強すぎるとか、適切な賃金を受け入れないとか、そういったものが候補に並ぶ。いずれも、投資の収益性を高める政策であり、それらを、痛みを恐れず果断に行えば、不況は解決されると説くのである。
その一方で、需要を与えることについては、不合理な政策として忌避される。仮に、需要を与えて、それに応じて設備投資が増えるとすると、設備投資そのものによる需要によって、更に設備投資が出て、拡大が止まらなくなる。逆に、需要を抜くと、どこまでも設備投資が減り、放置される余資と失業は増えるばかりだ。こうしたことは合理性に反するから、起こらないものとされる。そうならないのは、金利が正しく導いてくれるからである。
結局、人は合理的に行動するという考え方を受け入れると、金融緩和と法人減税で投資の収益性さえ高めておけば、緊縮財政を併せてやっても平気だという結論になる。もちろん、短期的には余資や失業の痛みもあるだろう。しかし、十分に時が経てば、それも解消される。むしろ、緊縮財政によって、金利の高騰を防いでおく方が大切だとなる。
こうした見解に対して、「過去の歴史を調べてみると、どうも財政も大切なようですよ」と言おうものなら、「こいつは合理性というものが分らない輩らしい」と蔑まれることになる。理解力に疑問があると見下される者の意見なんて、聞いてもらえるものではない。せいぜい「ウォームハートも結構だが、財政による痛み止めも大概にしないと、モルヒネ中毒になるよ」と皮肉交じりに返されるのが関の山である。
………
さて、「何か変だ」、そう思うなら、あなたは現実的な人である。「不合理だか何だか知らねぇが、需要もないのに設備投資するバカが居るかい、金利だの税金だのは気にしちゃいねぇや」、「だいたい、投資が投資を呼んだり、不況がどんどん深まったりする方が、よっぼと世の中ってもんだ」、「実際がそうなのに、理屈で無いことにして、どうすんのよ」、「いつか景気が良くなるって、それまでに死んでるぜ」。確かに、そのとおりである。
江戸っ子は気が短いかもしれないが、現在の経済学と思想に異を唱えるには、人が「常に」不合理であるということを気長に論証しなければならない。本当の理論的な課題は、そこにある。「どうすれば経済学」は、それを解くものだ。利益最大化の「公準」は、崩しようのない絶対的なものに思えるかもしれないが、そうしたものさえ、覆されることもあるというのが、数学や物理学の歴史が教えるところなのだ。
(つづく)
※アベノミクスが最後に道を踏み外した理由を探るには、思想的背景から浮き彫りにする必要があると感じている。そして、更にこじらせた状態になる日本経済をどう救うかを今から考えておかないといけない。シリーズで不定期に書いていくつもりだ。
(今日の日経)
ビッグデータで街づくり。業種別GDP四半期で、17年めど。需要が拡大し、売上が増えれば、企業は自然と投資を増やす・吉永富士重社長。リーマン・需要も資金も蒸発、政府が埋めた日銀の外堀。ナゾ科学・クリの渋皮。読書・原敬の大正。
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