久しぶりに食べログの日記を開いてみたら、最後に書いたのが2016年の11月。
一年以上もほってある、さすが私だと思った。
子どもの頃から、日記は3日以上続いたためしがなかった。
興味を持ったことには、とてつもない集中力を発揮するが、
こらえ性がなく、飽きっぽい。
そんな自分を変えようと、元旦になると、日記をつけ始めるのが、私の新年の計であった。
しかし、三が日を待たず、その日記は終わりを告げる。
この繰り返しの人生であった。
常々、そういう自分を反省し続けてきた私であったが、
ここ1、2年は、まるで反省しなくなってしまった。
なんかこう、そういう自分を認めてしまったというか、
というより、「そういう自分ってなんか好き」
と思うようになってしまったのだった。
日記を三が日でやめてしまう。
それなのに、次の年の元旦になると、懲りずにまた日記を書き始める。
そしてまた3日でやめる。
残るのは、真新しいページを大量に残した日記帳の残骸のみ……。
この「懲りずに」という部分が、いいのである。
ここには「希望」がある。
「もしかしたら私、今年からはついに『日記』というものを成し遂げちゃうんじゃないかしら」
という、あくなき自分への「信頼感」がある。
ここがいい。
どんなに裏切られても、自分を信じる。
ここが私の偉いところなんだな……と、ひとりごちる。
以前、あるママ友から、こういう私に対して、
「根拠のない自己肯定感の持ち主」
という褒め言葉を頂戴したが、「根拠」とはいったい何を指すのだろう。
学歴?
美貌?
地位?
名誉?
富?
つまり彼女の言いたいことは、こういうことだった。
誰からも「すごい」とか、「素敵」とか、「羨ましい」と思われるもの。
こういう条件を全て備えていて始めて、自分を好きになったり、肯定できるんだそうだ。
馬鹿馬鹿しい。
自分を好きになることに、なんの「根拠」が要るのだろうか。
何を兼ね備えたら、自分を好きになり、自分を肯定できるというのか。
思えばこのママ友は、「自己肯定感」が非常に低い人であった。
上にあげてみた条件を、ほぼ手に入れているような人だったが、
どうしても自分を好きになれず、自分を認めることができないでいる。
悲しいことだと思う。
そして彼女の一番の悲しさは、それが悲しいことだと気づくことができないことだと思う。
ずいぶん脱線したが、つまり何が言いたいんだっけ?
そうそう、日記が三日坊主だということだった。
だから食べログの日記もほったままで、
そんな自分が、やっぱり結構、気に入っている(o^―^o)ニコ