戦国のサムライ論 ~役人?武将?上級武士?時代とともに変遷していく侍の定義
- 2025/02/26

ゲームでは彼は「侍」として描写されているらしく、彼が侍かそうでないか、ネット上では活発に議論が交わされました。
はたして弥助は侍だったのか?本稿では彼の身分を考えつつ、侍についても解説していきたいと思います。
弥助が侍かどうかは、まず侍を定義してから
弥助は侍か否か。最初に結論から言ってしまうと、「わからない」が正解になります。いきなり曖昧な発言になって申し訳ありませんが、はっきりした答えはどうしても出せないのです。

デジタル大辞泉は、侍を下記のように説明しています。
《「さぶらい」の音変化》
1 武芸をもって貴族や武家に仕えた者の称。平安中期ごろから宮中や院を警固する者をいうようになり、鎌倉・室町時代には凡下(庶民)と区別される上級武士をさした。江戸時代になって幕府の旗本、諸藩の中小姓以上の称となり、また、士農工商のうちの士身分をいう通称ともなった。武士。(後略)
……鎌倉・室町時代の後は、説明が一気に江戸時代まで飛んでいますね。これは、戦国時代における侍の定義が定まっていないためです。定義が決まっていないものを、「そうだ」と断言することは出来ません。
私は素人ですが、誠実な研究者であればあるほど、弥助が侍かどうかは「わからない」と答えると思います。せいぜい根拠を示しつつ、「こういう史料があるので、侍ではないと考えられる」あるいは「侍である可能性が高い」と言うぐらいが関の山です。
もっとも、弥助が立派な鎧兜を身につけられるような武将でなかったことは確かです。そのような身分であったなら苗字があり、馬にも乗れて、何人もの部下がいたという記録が残っていなければおかしいのです。特に珍しい外国人の上級武士ならなおさらです。
弥助は有名な戦に参加した記録はなく、太刀すら持っていたかは定かではないので、そういう意味では侍である可能性はかなり低いと思われます。というのも、戦国時代における「侍」とは、少なくとも軍役を果たす義務のある存在だからです。
主人の側近くに「さぶらう人」が侍の語源
そもそも「侍」の始まりは、平安時代にまで遡ります。語源は「さぶらい」で、当時は貴人の身辺に伺候して、警護に加えて事務や雑務もこなす官人(下級官位を持つ役人)を指した言葉でした。それが、治安の悪化とともに武力が求められるようになり、承平5年(935)から始まった承平天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)を経て、「さぶらい」といえば主に武芸をもって貴族に仕える武士のことを言うようになります。鎌倉時代に入り、武家社会が成立すると、貴族ではなく将軍に仕える「御家人」が誕生します。鎌倉将軍として国司任命権を得た頼朝は、御家人を国司に推挙(任命権はあったものの、朝廷にお伺いをたてていました)。国司は従五位下相当の上級貴族ですから、かなりの身分を得たことになります。
もちろん国司になれるのは有力御家人だけですが、そもそも御家人は荘園領主だったり管理者だったりして、下級官位を持つ官人がほとんどでした。ここに「御家人=官位を持つ武士=侍」という図式が誕生します。侍は武士に含まれますが、もともとは武士より狭い範囲を示していたのです。
鎌倉幕府は、官位を持つ武士を「侍」、それ以外を「凡下(ぼんげ)」として定めました(凡下は百姓や商人など一般庶民も含んでいます)。法制上、侍は上級武士、武士の凡下は下級武士という身分制度が生まれたのです。侍と凡下では扱いが違い、仮に犯罪を犯した場合、侍は拷問されませんが凡下は拷問され、焼き印などの肉刑も受けるという決まりだったそうです。ちなみに将軍ではなく、その下、御家人に仕える武士は郎党(ろうどう)・郎従(ろうじゅう)と呼ばれ、侍扱いはされませんでした。
室町時代になると、守護・守護代など将軍に直接仕える武士は「直臣(じきしん)」、直臣に仕える武士は「陪臣(ばいしん)」と呼び名は変わりますが、やはり侍扱いされるのは直臣だけでした。
侍の定義が崩壊する戦国時代
この身分規制が崩れたのが、戦国時代です。何しろ時代は下剋上です。織田信長の父・信秀のように、守護代の家臣という陪臣の身分から従五位下に叙位され直臣となり、戦国大名へとのし上がる武将がいるほど、上下関係も主従関係も崩壊。侍の定義も揺らいでいきます。
例えば戦国時代に生まれた「地侍」という存在は、豪農が戦になれば力を貸すという契約を地方領主と結び、主従関係となったことでそう呼ばれるようになりました。将軍に仕えているわけではないので、以前の基準で考えれば「侍」ではありません。それでも、彼らは「侍」として扱われました。
他にも「侍大将」という言葉があります。そのまま読めば「侍たちを率いる大将」で、実際に戦国時代では総大将の下席・足軽大将の上席にあたり、直接一軍を指揮する存在でした。逆に言うと、戦場で侍大将の麾下となった武士は全員侍である、と周囲は認識していたことになるのではないでしょうか。

ちなみに足軽は臨時雇いの歩兵であり、戦国時代は基本的に侍扱いはされませんでしたが、江戸時代になると侍身分に含める藩も出てきます。江戸中~後期の老中・田沼意次の家は足軽出身です。
戦国後期になると、戦場で手柄を立てた武士は侍として扱われることもあったようです。しかし、その基準は各大名や領地ごとにバラバラで、全国で統一された「戦国時代の侍の定義」は少なくとも現段階では見つかってはいません。「武家に仕えていること」「戦働き(いくさばたらき)が出来ること」ぐらいは共通認識としてあったとは思いますが……。基準を作り、それを守らせる立場の室町幕府が形骸化しているのですから、当然といえば当然かもしれません。
しかし、幕府が崩壊していても、法制などは新しい秩序が定められるまでは生きています(無視されることもありますが)。それぞれ濃淡はあるかと思いますが、戦国時代でも侍=上級武士という感覚が残っている武将もいたと思います。朝廷や幕府に近かった大名などは特に多かったのではないでしょうか。
時代が下り、豊臣秀吉が天下を取ると、身分制度も再び整えられていきます。天正19年(1591)に秀吉の出した身分統制令は、武家奉公人の身分を定めた法令ですが、この中に「侍」という言葉が出てきます。
一 奉公人、侍、中間、小者、あらし子(荒子)に至る迄、去七月奥州に御出勢より以後、新儀に町人百姓に成候者在之者、其町中地下人として相改、一切を置へからす、若しかくし置に付ては、其一町一在所可被加御成敗事(後略)
口語訳:一 奉公人、侍、中間、小者、あらし子にいたるまで、去る七月(1590)奥州出兵以後、新たに町人・百姓になる者があれば、その町人・地下人が責任を持って改め(調べ)、一切住まわせてはならない。もし隠していたら町や在所ごと罰する。
この「侍」、以前は武士全般を指すと考えられていましたが、現代では「若党」と考えるのが一般的です。
若党とは武士個人が召し抱えた奉公人のこと。彼らは足軽より身分が上で、戦場では戦闘要員でもあったため、最下層の侍として扱われていました。武家奉公人には、この他に「小者」や「中間」などもいますが、こちらは単なる雑用係であり、侍としては扱われなかったそうです。
個人的には弥助は最上の身分でもこの雑用係程度だったんじゃないかと思っていますが、彼に関しては史料がほとんどないので憶測の域を出ないのがもどかしいところです。
戦国以後の「侍」の移り変わり
弥助については今後の研究に期待するとして、その後の「侍」の変遷を辿ってみましょう。江戸時代になると公的には上級武士を侍、下級武士を徒士と区分するようになります。上級武士は主君に謁見が許され、馬に乗ることができました。

幕府内では旗本以上を侍、大名家では中小姓以上のものが侍とされたようです。けれど時代が進み、武士とそれ以外(町人・農民など)の身分差が明確になってくると、庶民は武士全体を指して「侍」と呼ぶようになっていったとか。ただし、公的な身分区別はそのまま残っていましたので、給与形態や刑罰を与えるときなどはそちらが基準となりました。下級武士は蔵米の現物支給(後には代金支給も)だったため、暮らし向きはかなり厳しかったそうです。
刑罰では、新選組の近藤勇がわかりやすい例かも知れません。彼は幕臣に取り立てられているので、本来は切腹になるはず。それが斬首になったのは、おそらく官軍が彼を侍=幕臣扱いにしなかったことが、理由の1つだと思います。
明治になると、武士という身分は消滅。公的に上級武士とされていた「侍」も文書から消えていきます。これによって民間でのイメージ「武士=侍」の方が定着していき、現代ではほぼ同じものとして、区別なく使われるようになっていったのです。
【主な参考文献】
- サムライ研究会『わかっちゃう図解 サムライ』(新紀元社、2011年)
- 髙橋昌明『武士の日本史』(岩波書店、2018年)
- 山川出版社「ヒストリスト」
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