第一子に恵まれたものの、二人目妊娠では立て続けに「稽留(けいりゅう)流産」を経験した40代女性。年齢を重ね押し寄せる焦りと不安の中で出会ったのが『男女生み分け法』だった。日本で50年以上の歴史を持つ医療技術で、自然な方法を基盤に夫婦の希望をかなえるための医師のサポートだ。そして女性が授かったのは…。専門医が語る実状と、実際にトライした女性の思いを取材した。
心揺れる決断 ―二人目への道のり―
長崎市在住、フルタイムで働く女性が第一子を授かったのは働き盛りの30代の時だった。今から約10年前。夫が男の子を希望する中、第一子は女の子だった。
育休を終え職場復帰して間もなく、2人目を妊娠した。「次はどっちかなー?」夫婦で夢を膨らませる日々。「男の子がいいな」夫は男の赤ちゃん誕生への思いを口にしていた。
しかし6週目になっても胎児心拍が確認されず「稽留流産」と診断された。稽留流産は、本人には自覚症状がなく、受精時に偶発的におきる染色体異常によるものが多いといわれている。
流産を経験した1年後、女性は再び「妊娠」。しかしまたも「稽留流産」だった。年齢を重ねる中で、「二人目不妊」という言葉が頭をよぎり、焦りと不安で押しつぶされそうだった。
その時耳にしたのが『男女生み分け法』だった。性別を選べるの?親が選んでいいの?色んな思いが押し寄せる中、気持ちは固まっていった。「あと1人授かることができるなら男の子が欲しい」。
時代とともに変化する「男女生み分け」の役割
長崎県医師会の会長で、長崎市の産婦人科院長を務める森崎正幸氏。「男女生み分け」に従事して50年以上になるベテラン医師だ。
森崎医師によると、日本で「男女生み分け」の研究が始まったのは約50年前。当時、全国の産婦人科医が集まって「SS(性別事前選択法)研究会」を発足し、約1,000人の医師が所属して情報交換を行ってきた。しかし、少子化の影響もあり現在では参加する医師の数は減少しているという。森崎医師は、会の発足当時からのメンバーの1人だ。
およそ半世紀、医師として「男女生み分け」を指導してきた森崎正幸医師は、生み分けを希望する人の思いを通して、家庭環境の変化を感じていると話す。
長崎県医師会 森崎正幸会長(宝マタニティクリニック院長):
「男女生み分け法が始まった約50年前は、産婦人科を訪れる人の中に、『跡継ぎ問題(家系を守るための選択)』や男系家族を重要視する『社会の風潮』があって「男の子」を望む声が多かったんですよ」
「その後、多子家庭で、『次こそは別の性別の赤ちゃんが欲しい』と生み分けを希望する人が増えました。今では初産でも、かわいい服を着せたいから女の子が欲しい、老後のことを考えたら世話をしてくれる女の子を―と、女の赤ちゃんを望む人が増えています」