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田岡一雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
たおか かずお

田岡 一雄
左から小野満、田岡、鶴田浩二
1952年昭和27年)
生誕 1913年大正2年)3月28日
日本の旗 日本・徳島県三好郡三庄村
死没 (1981-07-23) 1981年7月23日(68歳没)
日本の旗 日本兵庫県尼崎市 関西労災病院
出身校 兵庫尋常高等小学校高等科
職業 ヤクザ実業家芸能プロモーター
肩書き 山口組三代目組長
神戸芸能社社長
日本プロレス協会会長
甲陽運輸社長
配偶者 田岡文子(フミ子)
子供 田岡満
田岡由伎
親戚 喜多郎
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山口組の“山菱”の代紋

田岡 一雄(たおか かずお、1913年大正2年〉3月28日 - 1981年昭和56年〉7月23日)は、日本ヤクザ実業家山口組三代目組長甲陽運輸社長芸能事務所神戸芸能社社長、日本プロレス協会会長田岡満映画プロデューサー)、田岡由伎(エッセイスト、音楽家喜多郎の元夫人)の父(子は異母兄妹)。

経歴

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誕生から山口組三代目継承まで

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1913年(大正2年) 、徳島県三好郡三庄村(後:三加茂町、現:東みよし町)大字西ノ庄高木の貧しい小作農家に、2男3女の次男(姉が三人 兄が一人の末子)として生まれる。父はすでに病没していた。田岡家の菩提寺は長善寺[1]

1919年(大正8年)、三庄村尋常小学校1年生のとき母親を過労で亡くし、一人だけ叔父の河内和四郎(鐘紡専属の荷役現場監督)に引き取られて神戸市兵庫区浜山通6丁目に転居。貰い子として叔母から冷遇され、酒飲みの叔父からは暴力を受けて育つ。

1925年(大正14年)浜山小学校を卒業そして兵庫尋常小学校高等科へと進学した。1927年(昭和2年)卒業後、地元の川崎造船所旋盤見習工として入社するが2年後の1929年(昭和4年)に現場主任を殴打して退社した。

兵庫尋常高等小学校高等科で山口組二代目組長山口登の弟秀雄と同級生だったことから、秀雄の誘いで叔父の家を出て、二代目山口組のゴンゾウ部屋に世話になり、夜警の仕事に従事しつつ、クスボリ(うだつのあがらぬ不良)グループに加わっていた[注釈 1]。仲間内では喧嘩相手の目を指で突く手口で恐れられ、「クマ」と呼ばれた。1930年(昭和5年)、山口組が用心棒を務める芝居小屋で小屋主の態度に腹を立て、芝居を上演中の舞台の花道に土足で乱入する騒動を起こす(湊座事件)。これがきっかけとなり、山口登の舎弟の古川松太郎に預けられて三下修業を積み、1936年(昭和11年)1月20日に二代目山口組の組員となる。この間、1932年(昭和7年)に、幕内力士の寶川が山口登の舎弟の大関玉錦を侮辱したとして寶川を短刀で襲撃し、右手の指2本を切断した上、額を割る事件を起こす。

1934年(昭和9年)に大正運輸争議が起きる。4月10日同社従業員二十名の解雇に端を発し陰山寿らが交渉にあたっていたが、5月7日、日本海員組合長である浜田国太郎邸で乱闘事件が発生。争議解決の斡旋のため現場にいた山口組の代表者3名のうち西田幸一が死亡、他2名も負傷した。山口組の組長だった山口登は斡旋を継続し5月8日、解決した。一方で田岡は組合長を斬りつけて九州に逃亡。のち神戸相生橋署に出頭し、傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所で服役している。

1937年(昭和12年)2月25日、山口春吉の舎弟に暴力を振るった大長政吉を福原遊廓で襲撃し、鉄瓶で殴打して頭を割る。その報復で山口組に殴り込みをかけた大長八郎(政吉の弟)を返り討ち、日本刀で斬殺。このため殺人罪で逮捕起訴され、神戸地裁懲役8年の実刑判決を受け、神戸刑務所大阪刑務所膳所刑務所京都刑務所高知刑務所で服役する。獄中では、みずから崇拝する頭山満玄洋社に関する本を読んでいた[注釈 2]皇紀2600年の恩赦で1943年(昭和18年)7月13日に出所した。二代目組長の登は前年の1942年(昭和17年)既に死亡していたので、その後 湊川で自ら田岡組を組織した。

戦後の混乱で警察力が弱体化し治安の悪い神戸の町と闇市三国人から守るために自警団を組み頭角を現し[2]、登の死後長らく空位であった三代目組長へ推す声が高まった[注釈 3]

1946年(昭和21年)10月、組の長老たちの推薦により、山口組三代目組長を襲名した[3]

三代目組長襲名後

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三代目襲名時の組員は三十数人だった。

田岡は賭博麻薬を禁止し、各組員に職業を持たせ、賭場を収入源としないヤクザ組織を作ろうとした[3]。賭博のテラ銭は、競輪競馬 及び競艇公営競技の隆盛によって、主要な収入源ではなくなり、別のしのぎを模索することになり、戦前からある浪曲興行からその他の演芸興行全般に手を広げ、平行して神戸港の港湾荷役にも進出した。

港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、山口組のその後の全国的な活動を支えた。

1953年(昭和28年)1月17日、全国港湾荷役振興協議会(全港振)設立には会長の藤木幸太郎を助け、自らも副会長に就任した。

芸能プロダクション神戸芸能社は、美空ひばり田端義夫などトップ・スターの興行を手がけた[2]

酒席で田岡の顔に接吻する榎本健一
1951年昭和26年)

1953年(昭和28年)[注釈 4]山本健一らによる鶴田浩二襲撃事件で鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、同年4月20日、天王寺署に出頭、逮捕される。同年5月4日、処分保留で釈放され、不起訴処分となる。

青田昇によれば、戦後の混乱期においてはプロ野球の試合は、地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ開催できずに嫌がらせを受けていたが、プロ野球ファンであった田岡は、野球は国民的娯楽だからと山口組の全国進出以後はそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという[4]

60年安保後、児玉誉士夫反共の防波堤としてヤクザを組織しようとした東亜同友会に田岡は参加せず[3]60年代半ばになり、それまで田岡の後ろ盾になっていた大野伴睦河野一郎ら「党人派」の政治家が死去し、池田勇人佐藤栄作ら「官僚派」が主流となり[3]警察もヤクザの力を借りる必要がないほど治安力を増強させたことから、官僚と警察は山口組を市民社会から閉め出しにかかる[3]。田岡は経済派の岡精義に経営関係を任せ、武闘派の地道行雄に抗争の指揮を委ね、「事業と抗争」「経済と暴力」の二本立てで山口組を運営していく[3]

田岡が各組の利権獲得のための抗争を黙認したため[3]、全国各地で流血事件が相次ぎ、一般市民は山口組への恐怖と嫌悪を募らせた[3]。それは1964年(昭和39年)に始まる「第一次頂上作戦」に口実を与え、これが1966年(昭和41年)に本格化する「山口組撲滅計画」に繋がっていった[3]

1968年(昭和43年)1月11日に吉本興業林正之助社長と共に、「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕されている(不起訴)。

組員に対しては合法的な収入源を持つように勧めた。それまでのヤクザ組織には無かった合法事業を持つ舎弟若衆には、非合法な事業を扱わせずに、組織の分業化を進め、結果として組の運営を合法事業と非合法事業に分けることにより、安定した資金源と、非合法な力を持つことになった。本人も「これからのやくざは経済新聞を読まなきゃあかん」「株の動向に注意するぐらいでないとあかんぞ」「正業へつけ正業へ」というのが口癖であったという。

1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こした。

1963年(昭和38年)に田中清玄菅原通済と連携した麻薬追放国土浄化同盟を結成し、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開しているが、横浜に支部(益田組)を出した時には地元勢力とトラブルとなった[注釈 5]

山口組を全国規模の組織に育て、警察庁から広域暴力団[注釈 6]の指定を受けた。

第一次頂上作戦以降

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1964年(昭和39年)の山口組を壊滅する為の「第一次頂上作戦」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、傘下の甲陽運輸が業務監査を受け、山口組は港湾業務から撤退した。

1966年(昭和41年)12月28日、自らが経営する甲陽運輸の脱税容疑で神戸地検に起訴される。

1968年(昭和43年)12月、職業安定法違反で神戸地検に起訴される。

1969年(昭和44年)4月25日、恐喝威力業務妨害で神戸地検に起訴される。

若頭地道行雄(地道組組長)が山口組解散へと動くが、幹部会で山本健一山健組組長)、菅谷政雄菅谷組組長)、梶原清晴(梶原組組長)、山本広(山広組組長)ら若頭補佐が反対。この結果、地道は失脚し、山本健一の力が増した。1965年(昭和40年)には、田岡が心筋梗塞で病床にあった事もあり、集団指導体制へ移行した。

自伝(昭和49年発行の初版)によると、神戸水上消防署一日署長をした経験を持つ[注釈 7][5][6]

「第一次頂上作戦」後も勢力の拡張を続けるが、1978年(昭和53年) 7月11日に京都のクラブ「ベラミ」で7月23日傘下の佐々木組と対立していた二代目松田組系大日本正義団の組員・鳴海清に後ろから撃たれ負傷する。 銃撃は38口径の拳銃で行われ、田岡に当たった銃弾は首の後ろ右から左へ抜け、右側に縦1.5cm、横0.6cm、左側に縦1.3cm、横0.6cmの貫通銃傷をつくり命に別状はなかった[7]が、流れ弾は後ろにいた2人の医師に当たり重軽傷を負わせた[8]。なお、事件発生当時、田岡のボディーガードとして付いていた細田利明(細田組組長)は、イタリア製自動拳銃で武装していたため銃刀法違反で逮捕。田岡も回復後に不法所持を黙認していたとして捜査を受けている[9]

これにより「第3次大阪戦争」と呼ばれる大規模な拳銃乱射事件が始まり、同年11月に山口組が終結の記者会見を開くまで続いた。田岡は関西労災病院にて治療後、料亭にベラミ関係者を呼んで謝罪した。

1981年(昭和56年)7月23日、急性心不全により68歳で死去。戒名は永照院仁徳一道義範大居士。若頭の山本健一が跡目に決まっていたが、翌1982年(昭和57年)病死。跡目相続は長い年月と争いが起こることになった(山口組四代目跡目問題)。また、四代目の跡目争いには妻で未亡人であった文子の意向が強く働いている。

山口組はハロウィンで近隣の子供たちにお菓子を配っているが、これは田岡が始めたものである。1970年代は、日本ではハロウィンはまだ知られていなかったが、山口組総本部は高級住宅街に近く、外国の領事館員や駐在員の住民の子供たちが、そうと知らずに山口組にもハロウィンで訪ねて来た。最初は小遣いをやって帰らせていたが、田岡がハロウィンについて調べさせ、以降はお菓子を用意するようになったという[10]

2013年(平成25年)7月23日、神戸市灘区の自宅において三十三回忌法要が弔い上げとして執り行われる。施主は長女田岡由伎、司会は長沢純

芸能プロモーターとして

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1957年4月に芸能プロダクション神戸芸能社の看板を掲げ[2]、芸能プロモーターとしても活動[2]。特に国民的歌手である美空ひばり後見人となり、ひばりプロダクション副社長になって美空ひばりの興行権を握ったことで、京都以西では「田岡なしでは興行ができない」とまで言われる実力者に若くして台頭した[2]。美空ひばりが東映と映画出演の専属契約を結んだ関係から、後に映画界のドンと謳われた岡田茂とは、阿吽の呼吸で知られ[2][11][12]、岡田の指揮する「東映任侠映画」や「実録ヤクザ映画」に協力し、高倉健菅原文太勝新太郎など数多くの俳優とも親交を持った[2][12]

人物

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  • 田岡は「東洋のアル・カポネ」と称される。アル・カポネはアメリカギャングの親玉だが、犯罪組織を近代化したことで知られる。田岡が創立した港湾荷役会社の甲陽運輸では、前科持ちや住民票のない者が多かった港湾労働者を団結させ、組合を結成させた[13]
  • 当時大きな問題にならなかったが、大鵬の後援者としても有名であった[14]

田岡を支えた主な山口組最高幹部

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戦後・昭和20年代

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昭和30年代から頂上作戦

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頂上作戦以降

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田岡をモデルにした作品

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  • 映画『山口組三代目』(1973年、東映) - 演:高倉健
  • 映画『三代目襲名』(1974年、東映) - 演:高倉健
    • 田岡一雄と高倉健とは親しく[15]、田岡はこれら作品の撮影現場を訪ねており、高倉を激励していた[16]。田岡は高倉と江利チエミの結婚披露宴にも招待され、清川虹子の自宅で美空ひばり小林旭夫妻と共に高倉・江利夫妻と一時を過ごした[17]。酔っていた小林旭が高倉健に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり、受け取れと強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めた[17]。田岡一雄が1965年(昭和40年)に心筋梗塞危篤に陥り面会謝絶だったが、高倉健は江利チエミを伴い見舞いに訪れた[18]
  • 映画『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年、東映) - 演:丹波哲郎
  • 映画『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976年、東映) - 演:丹波哲郎
  • 映画『日本の首領』(1977~78年、東映) - 演:佐分利信
  • 映画『総長の首』(1979年、東映) - 演:俊藤浩滋
  • 映画『制覇』(1982年、東映) - 演:三船敏郎
    • 原作は志茂田景樹、実際に起こった三代目山口組と二代目松田組との抗争事件、「大阪戦争」がモデルとなっている。
  • 映画『最後の博徒』(1985年、東映) - 演:丹波哲郎
  • 映画『極道の妻たち 三代目姐』(1989年、東映) - 演:丹波哲郎
  • テレビドラマ『美空ひばり物語』(1989年12月30日、TBS) - 演:ビートたけし

著書

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  • 『田岡一雄自伝 山口組三代目』全3巻 1973年-1974年(トクマドキュメントシリーズ)徳間書店 のちに文庫化(1982年)
  • 『山口組三代目 田岡一雄自伝』全3巻 1982年 徳間文庫(徳間書店)のちに文庫新装版(2009年1-3月)
    • 『山口組三代目 田岡一雄自伝 電撃篇』徳間書店〈徳間文庫〉、1982年6月15日。ISBN 4-19-597322-8NDLJP:12193044 
    • 『山口組三代目 田岡一雄自伝 迅雷篇』徳間書店〈徳間文庫〉、1982年7月15日。ISBN 4-19-597334-1NDLJP:12196000 
    • 『山口組三代目 田岡一雄自伝 仁義篇』徳間書店〈徳間文庫〉、1982年7月15日。ISBN 4-19-597335-XNDLJP:12196075 
  • 『山口組三代目 田岡一雄自伝』(『週刊アサヒ芸能』創刊50周年特別企画)2006年10月 徳間書店 ISBN 4-19-862238-8
  • 『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間文庫カレッジ)2015年6月 徳間書店 ISBN 978-4198622381

脚注

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注釈

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  1. ^ これに対して、硬派の不良学生は「バラケツ」と呼ばれた。「わたしが若いころバラケツ団に入団していたと書いている本があるが、そういう事実はない。わたしはクスボリであった」と、田岡は『山口組三代目 田岡一雄自伝』p.47(徳間書店、2006年)で書いている。
  2. ^ デイビッド・E・カプラン、アレック・デュブロ『ヤクザが消滅しない理由。』p.53(不空社、2003年)。後には頭山の名を取って、長男にと命名するに至る。
  3. ^ 自警団時代に、菅谷政雄と知り合い、後に親子の杯を交わした。
  4. ^ 『田岡一雄自伝』巻末年表では1951年としている。理由は不明。
  5. ^ この関東とのトラブルで、山口組は力で“多摩川を越えない”という約束が、児玉誉士夫の調停により関根賢松葉会)・阿部重作(住吉一家)・並木量次郎(並木一家)・稲川角二錦政会)との間で交わされた。
  6. ^ 現在は指定暴力団として各都道府県の公安委員会が指定出来る。
  7. ^ 昭和35年9月23日付神戸新聞に「消防」との記事がある。

出典

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  1. ^ 第十二番酒蔵札所 「可楽智酒造」
  2. ^ a b c d e f g 山川光彦. “松本人志も憧れた「島田紳助」が引退に追い込まれた理由とは? タブーになった暴力団と芸能人の繋がり”. Book Bang (新潮社). オリジナルの2024年2月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240223231050/https://www.bookbang.jp/article/770978/2 2024年2月24日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i #伊藤、第十二章 山口組の戦後史…、197-213ページ。
  4. ^ 青田昇『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝」』P316-317
  5. ^ 『ヤクザが台湾人襲撃から警察署守り山口組組長が一日消防署長に』”. NEWSポストセブン. 小学館 (2015年3月1日). 2021年7月1日閲覧。
  6. ^ 『ヤクザと共生する街、神戸市民の意外な「山口組観」』(3ページ目)”. ダイヤモンドオンライン. ダイヤモンド社 (2016年11月16日). 2021年7月1日閲覧。
  7. ^ ピストルは38口径 田岡組長そ撃『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月12日夕刊、3版、11面
  8. ^ 田岡組長撃たれて重傷 医師二人も巻き添え『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月12日朝刊、13版、23面
  9. ^ 暴力団抗争 頂点に捜査の昇順 田岡組長追及がカギ『朝日新聞』1978年(昭和53年)10月9日夕刊、3版、11面
  10. ^ 六代目山口組が2年ぶりにハロウィンを復活。その裏事情とは? - 日刊SPA!
  11. ^ 伊藤徳裕 (2016年5月7日). “山口組分裂 東映「仁義なき戦い」シリーズなどを手がけた大物プロデューサーが激白 「ドンパチがないと映画にはならん!」”. 産経新聞 (産業経済新聞社). オリジナルの2021年11月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211101062135/https://www.sankei.com/article/20160507-Y2N6SMAEH5MQFKXWE4HB36EPCE/2/ 2024年2月24日閲覧。 
  12. ^ a b 高堀冬彦 (2019年12月30日). “梅宮、高倉、菅原・・・ 東映「ヤクザ映画」スター秘話 本物のヤクザと親しくなる理由”. デイリー新潮. 新潮社. 2020年10月日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月24日閲覧。
  13. ^ 『唐牛伝』小学館、2016年、156頁。 
  14. ^ 【熱海富士 困惑】伊勢ヶ濱部屋に反社との関係疑惑!?永谷園に怪電話が!? YouTube『貴闘力部屋』2024/06/29 (2024年7月27日閲覧)
  15. ^ 山平重樹「第五章 落日の「栄光」」『実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界』取材・写真協力 田岡満(第1刷)、双葉社(原著2009年11月22日)、259-325頁。ISBN 4575301728 
  16. ^ 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、323ページ。
  17. ^ a b 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、262-263ページ。
  18. ^ 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、298ページ。

関連書籍

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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先代
山口 登
山口組組長
3代目: 1946 - 1981
次代
竹中正久