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藤原園人

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藤原 園人
藤原園人『前賢故実』より
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平勝宝8歳(756年
死没 弘仁9年12月19日819年1月18日
別名 前山科大臣
官位 従二位右大臣正一位左大臣
主君 光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原楓麻呂、母:藤原良継の娘
兄弟 園人、園主、城主
藤原園主の娘
浜主関主、並人
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藤原 園人(ふじわら の そのひと)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿藤原北家参議藤原楓麻呂の長男。官位従二位右大臣正一位左大臣前山科大臣(さきのやましなのおとど)とも称された。

経歴

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光仁から桓武朝

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父・楓麻呂は西海道使や国司等を歴任し、長く地方行政に携わった後、参議へ昇進して4年後の宝亀7年(776年)に薨去した。当時、園人はまだ無位で任官していなかったが、父歿から3年後の宝亀10年(779年従五位下に初叙され、美濃介に任ぜられた。

その後、延暦2年(783年)から延暦4年(785年)にかけて一時的に少納言右少弁太政官の官房機関の官職を務めた他は、備中守安芸守大宰少弐豊後守大和守桓武朝の前期から中期にかけて長く地方官を務めた。園人は百姓の立場から仁政をしく良吏であったらしく、国守として赴任した豊後国では、園人の善政と遺徳を頌える祠が建てられ、大分県日出町大神の御霊社に現存している。また、大和守の官職にあった延暦18年(799年)には、郡司について任務が大変な割に外考(外位に対する考課。内位に比べて昇進が遅い)扱いで、子孫に対して恩恵を残す事ができず、十分な収益も得られない事から、郡司に任じても辞退者が続出して郡の行政に支障を来していたため、内考扱いとするよう言上し、朝廷より畿内5ヶ国について認められている[1]

延暦17年(798年従四位下右京大夫に叙任されて京官を兼ねると、のち右大弁・大蔵卿と要職を歴任した。

平城朝

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大同元年(806年平城天皇即位に伴って正四位下参議(のち観察使制度の設置により山陽道観察使)に叙任され公卿に列した。また、皇太弟に立てられた神野親王(後の嵯峨天皇)の皇太弟傅にも任じられている。

この頃から園人は積極的な政策提案を行い、多くが採用された。園人の民政提案は、百姓撫民(貧民救済)と権門(皇族・有力貴族・寺社)抑制の2つの大きな方針から構成されていた。当時は律令制の本格施行から1世紀が経過し、均等な階層として想定されていた百姓層の階層分化が進行しつつあった。大多数の百姓は次第に貧民化していき、ごく少数の富豪百姓らに従属していく等、従前の共同体秩序が変質し始めていた。さらに有力貴族・寺社等の権勢家(権門)が、自らの経済基盤を強化するため、墾田永年私財法による規制面積以上に土地を開発し、百姓層の生活を圧迫する状況が見られた。百姓層の均質性は律令制維持のための前提条件であり、園人の政策提案は、百姓層の均質性維持、ひいては律令制維持を図ったものであり、園人の政策を採用した当時の政府もまた、律令制維持を企図していたのである。

なお、この頃に園人が建言し採用された施策として、以下のものがある。

  • 西海道(九州地方)から平安京に向かう使人が多数に上り、使人送迎への動員により、西海道の庶民が疲弊している。従って、大宰府を含む西海道諸国の五位以上の官人国司の任期(4年)が満了した者を除いて入京を禁止すべきである[2]
  • 山海から得られる収穫は公私で共有すべき物であるが、権勢家が占有して百姓の利用を閉め出している。しかし、愚かな役人はこの状況を許し、敢えて諫止していないため、人民は甚だしく衰亡している。従って、慶雲3年(706年)の詔[3]に従って、権勢家の占有を一切禁止すべきである[4]
  • 播磨国封戸が多数設置され、封戸租を運搬するための負担が百姓が疲弊している。加えて、平安京に近いことから頻繁に雑用を課せられるため、費用に充当するための動用穀が不足し、長年蓄えていた不動穀も消費して、僅か9万斛(石)しか残っていない。従って、春宮坊と諸寺の封戸を東国へ移すべきである[5]
  • 山陽道(播磨国・備中国備後国安芸国周防国)の5ヶ国は、しばしば不作が発生し人民が疲弊していたため、延暦4年(785年)から延暦24年(805年)迄の間に雑穀の未進が少なからず発生している。この未進分を本来の課税品目で徴収しようとしても、担当すべき当時の国司は死亡あるいは交代していて実施は難しく、百姓も病と飢えで運搬に非常に困難を伴う。そのため、未進分は正税に混合して穎稲の形で収納すべきである[6]
  • 山陽道諸国では長年疲弊しており、徴税が困難となっている。加えて、大同4年(809年)4月28日の恩赦によって、徴税担当国司の未徴収の罪は赦免されているため、後任に未徴収分の徴税させる他はないが、実施に非常に困難を来している。従って、朝廷の財政逼迫状況を踏まえて、大同元年(806年)以降の庸調雑米の未進は全て徴収するが、他雑物で恩赦以前の未進については徴収を免除する事によって、人民の負担軽減及び後任国司が前任国司の責任を負う事の回避を図るべきである[7]

嵯峨朝

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大同4年(809年)東宮傅として仕えた嵯峨天皇が即位すると正三位中納言に任ぜられ、翌大同5年(810年)には大納言に昇進する。弘仁3年(812年)には右大臣藤原内麻呂の薨去に伴い、園人は嵯峨天皇の厚い信任の下右大臣に任官し、太政官の首班に立った。また、弘仁5年(814年)には従二位に叙せられると共に、6月に万多親王らと『新撰姓氏録』を嵯峨天皇へ提出している[8]

日本後紀』等によれば、園人が主導する政府の施政方針は、参議時代から提唱していた百姓撫民及び権門抑制だったと考えられている。しかし園人の精力的な取り組みにもかかわらず、社会状況は必ずしも好転しなかったようである。また園人の施政は独自のものではなく、前代の桓武天皇藤原緒嗣らの路線を踏襲したものと評価する見解もある。園人の次に太政官首班となった藤原冬嗣は律令支配路線を大きく転換し、権門による開発の規制緩和を実施していった。

弘仁9年(818年)12月19日薨去。享年63。最終官位は右大臣従二位兼行皇太弟傅。嵯峨天皇はその死を非常に惜しみ、葬儀へ使者を遣わすと共に、左大臣正一位官位を贈った。空海も園人への追悼の書を記している。

官歴

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注釈のないものは『日本後紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本後紀』延暦18年4月28日条
  2. ^ 『日本後紀』大同元年6月1日条
  3. ^ 『続日本紀』慶雲3年3月丁巳条
  4. ^ 『日本後紀』大同元年閏6月8日条
  5. ^ 『日本後紀』大同3年4月3日条
  6. ^ 『日本後紀』大同3年5月19日条
  7. ^ 『日本後紀』大同4年7月1日条
  8. ^ 『日本後紀』弘仁5年6月1日条
  9. ^ a b c d e f 『公卿補任』

出典

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