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京枡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
十合枡から転送)

京枡(きょうます)とは、日本中世末期から昭和戦後期にかけて公定のとして採用されていた枡の様式である。内法(うちのり)は縦横ともに竹尺4寸9分四方、深さ2寸7分[注 1]、すなわち容積64827立方分をもって1とした。

ただし、これは1620年代頃に出現したいわゆる「新京枡」で、それ以前の安土桃山時代の頃からの京枡は積62500立方分のものであった。

経緯と変遷

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公家政権の政治力に低下に伴い、朝廷が定めた延久宣旨枡が用いられなくなると[1]、日本各地でまちまちな基準で枡が作られるようになり、大は十四合枡から小は二合枡まで各種枡が普及し、室町時代にはその弊害が深刻化した[2]

戦国時代になると、商品流通の進展や代銭納の普及によって商取引が活発化し、枡の統一を求める動きが生じ、10合=1升となる十進法十合枡(じゅうごうます、十合斗)へと収斂されるようになった[2]

特に京都では「京都十合枡」と呼ばれる枡が用いられて畿内一帯で行われた。これを略して「京枡」と称した。永禄11年(1568年)に上洛した織田信長は「十合枡」を領国内統一の枡として採用し、豊臣秀吉太閤検地石盛決定や年貢徴収の際にこの枡を用いた[3]。後、江戸幕府の施政に至り、「新京升」という改正された京都十合枡が公定の枡として認めらるようなったと論説される[2]

織田・豊臣が統治した時代の京枡は、今日知られる京枡よりもひとまわり小さかった。一般に5寸四方、深さ2寸5分[注 2] すなわち容積62500立方分のものが知られるが[4][注 3]、この容量は切れがよく、ちょうど1立方尺の16分の1の容量に当たる[注 4][5]。異説あって、他の容量の枡も言及されている[注 5]

枡はその正確性を維持するために枡座と呼ばれるの設置が認められ、京都では福井作左衛門が管掌していた。一方、徳川家康江戸移封の際に旧領の遠江国樽屋藤左衛門を江戸に招いて自領における京枡生産を一任し、これが江戸の枡座に発展するとともに江戸幕府成立後には江戸の枡座は京都のそれと同様に重んじられた。

ところが、江戸幕府の成立によって京都の枡座への統制が緩くなったことで[要出典]寛永初期頃かそれ以前より、やや口の狭いかわりにやや深いものが制作されるようになった―竹尺[7]4寸9分四方、深さ2寸7分の64827立方分の枡である[注 6][9]。これが現在に至って踏襲される一升の容量の枡であるが、以前の京枡[注 7]と区別のため新京枡(しんきょうます)と呼称される場合がある。

寛永初頭には、この新升に制定されていたのであろう、というのが、その年代の文献を調べた中村惕斎の見解である[注 8][5]。さらに文献をあたると、惕斎の論法をよしとるなら、"京枡の寸法改正は元和8年(1622年)の春から翌9年の末までの間"に遡れるとされる[10]

従来の製法を維持してきた江戸の京枡は「江戸枡」と称され、産地によって製品の枡に差異が生じた。京枡の方は普及し、「江戸枡」は江戸市中以外では使用されないほどになったので、江戸幕府は寛文9年(1669年)2月、枡の統一令(御触書寛保集成134号)を発布し[注 9][11][13][3]、新京枡をもって統一した公定枡とした(寛文年間に制定との解釈である[14])。そしてこの発令のもと、全国66国を東西に分割し東側を江戸枡座、西側を京枡座に管掌させ[15]、それぞれに京枡の独占的製造・販売権・検定権を与えた[3]。偽枡づくりの罰則は極刑で「引廻シノ上獄門」に処すと1742(寛保2)年御定書百箇条に定める[16]

江戸時代の京枡には穀用の「弦鉄枡(つるがねます)」と液用の「木地枡(きじます)」の2種類があり、前者には口辺に対角線状の鉄準(弦鉄)を渡していた。種類はともに1合・2合半・5合・1升・5升・7升・1斗の7種類存在した。天領や多くのでは枡座から購入して自領に流通させていたが、歴史ある大藩の中には自藩伝来の枡を固守したり、京枡と同一の枡を自藩もしくは自藩指定の枡座(多くは藩内の商人)に製造させたりするなど独自の藩法に基づく枡を用いて幕府の命令を拒絶した(藩枡)。もっとも、どこの藩経済も京枡の中心である京都・大坂との取引なくして成り立たない時代となっていたため、藩枡を維持している藩でも次第に京枡準拠のものを作るようになっていった。もっとも、全ての藩もしくは領主が京枡に従った訳ではなく、また一部商人なども含めて不正目的で京枡と異なる枡を用いる場合もあったため、枡の統一は困難をきわめた。

明治政府明治3年(1870年)に尺貫法を維持して京枡をそのまま用いる方針を採った。明治24年(1891年度量衡法でも「(単位)」は64827立方分(新京枡の容量)と定義されており[17]、これを同法定義の現尺(10/33メートル)で換算した積が現升であり、分数表記で 2401/1331000 m3[18][注 10]、割り算値で1803.9 cc(1.8039リットル)に値する[7][注 11]

政府は明治8年(1875年)の 度量衡取締条例 によって枡座を廃止して検定は政府が行い、製造・販売は民間に任せる方針を打ち出した。その後、昭和34年(1959年)のメートル法実施と5年後の完全移行に伴って京枡はその使命を終えることになった。

注釈

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  1. ^ 約148.485mm×148.485mm×81.818mm。
  2. ^ 約151.515mm×151.515mm×75.758mm。
  3. ^ 例えば 『多聞院日記』の天正14年10月9日付で「京番(判)の 升(ます)」もこれであると考証される。日記に、当時の1石は以前の十合升ではかると1石2斗に相当すると付記されており、「以前」を宣旨枡系統(現代0.8升)とすると、計算上0.96升の枡は積62500立方分が合致する。
  4. ^ 1000000立方分の1/16が62500立方分。
  5. ^ 中村惕斎は『多聞院日記』の例は"芥田氏の縦5寸1分横5寸1分半フカサ2寸4分半の升"だという[4]。なお惕斎(中村之欽)『三器攷略』よれば、昔(天正・慶長頃)には大小二種類の枡があり五寸四方のものはその大の方だとしているが、ここでいう小とは8合枡(宣旨枡系統)だと狩谷棭斎は述べている[6]
  6. ^ 中村惕斎『三器攷略』によれば、あまり口が広いと「好巧 」(すなわち斗掻による不正)をゆるすので口を狭くしたとしている[8]
  7. ^ 豊臣政権・江戸幕府初期の京枡、のちに「江戸枡」と呼ばれて江戸中期まで作り続けられたもの
  8. ^ "寛永四年ニハ既二其制ヲ改メラレシ"。寛永4年(1627年)成立の算術書『塵劫記』ですでに新升を「今判」と呼称したり、前のものを「昔升」や「古升」と呼んでいることを根拠としている。
  9. ^ 2月に"江戸升今度京升之ことく、御改升一同被仰付候間..."のお触れがあり[11]、8月にも改めて "当春相触候通、江戸升と京升寸法相違有之故.."のお触れがあった[12]
  10. ^ これは単純に計算できるが、64827立方分 = 64827/106 立方尺 = 64827/106 × (10/33)3 立方メートル。因数分解で分子と分母を27で割ると2401×103 / 1331×106 になり、あとは0を相殺する。
  11. ^ なお、水鳥川の論文では、寛文年間に公定された実在の新京枡の容量の実測するばあい、枡口の対角に横たえた弦鉄つるかね/げんてつという金属棒をはずして計測しなければならないと指摘する[7]。ただこの測定が現升と一致するというのはおかしい。水鳥川が指摘する通り"現尺より0.2%長いで作られていた"[7]のならば、その升はより大きい容量の値になる。

出典

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  1. ^ 竹田 2000「宣旨枡」
  2. ^ a b c 竹田 2000「十合枡」
  3. ^ a b c 『日本経済史 1』1988年、103頁
  4. ^ a b 天野 1979, p. 10.
  5. ^ a b 中村惕斎 1917, pp. 137–166『三器攷略』。狩谷棭斎 1927「本朝量攷」、77–78頁に引用。参:天野 1979, p. 11
  6. ^ 狩谷棭斎 1927「本朝量攷 」、77–78頁。
  7. ^ a b c d 水鳥川 2012, p. 99.
  8. ^ 天野 1979, pp. 11, 13.
  9. ^ 天野 1979, pp. 11–13.
  10. ^ 天野 1979, p. 12.
  11. ^ a b 『日本国語大辞典』1972年、206頁
  12. ^ 小泉 1977, p. 34.
  13. ^ 水鳥川 2012, p. 106.
  14. ^ 竹田 2000「升」
  15. ^ 小泉 1980, p. 216
  16. ^ 小泉 1977, p. 33.
  17. ^ 日本社會事彙』 下、經濟雜誌社、1907年、1252頁https://books.google.com/books?id=30g4AQAAMAAJ&pg=PP1288 
  18. ^ 小泉袈裟勝 編『単位の辞典』(改訂4)ラテイス出版、1981年、394頁https://books.google.com/books?id=fmewAAAAIAAJ 
参考文献
  • 梅村又次; 速水融; 宮本又郎 編『日本経済史 1 経済社会の成立: 17~18世紀』1号、岩波書店、1979年。 
  • 中村惕斎 著、滝本誠一 編『律尺考驗 幷三器攷略』日本経済叢書刊行会、1917年、137–166頁。  NDLJP:1881988

外部リンク

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