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依光好秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
依光 好秋
よりみつ よしあき
生年月日 1894年8月29日
出生地 高知県幡多郡奥内村
没年月日 (1968-01-10) 1968年1月10日(73歳没)
出身校 専修大学
前職 ジャーナリスト
所属政党 立憲政友会
日本進歩党
日本再建連盟
日本民主党
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依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1968年1月10日)は、日本ジャーナリスト政治家衆議院議員総選挙に通算3回当選した。

来歴・人物

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依光重義の三男として高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦に生まれた[1]。芳の沢小学校を卒業した後弘見小学校高等科に入学、同校卒業後は高知県立第三中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に入学した[1]。県立三中の4年次を修了後専修大学政治経済科に入学し、同大学卒業後読売新聞社に入社し、のちに同社政治部長に就任した[1]1927年12月に時の内閣総理大臣田中義一内閣書記官長だった鳩山一郎らに認められ、朝鮮総督山梨半造秘書官に就任[1]。だが山梨の側近らと意見が合わず秘書官を辞して帰郷[1]1932年第18回衆議院議員総選挙に故郷の旧高知2区から立憲政友会公認で立候補し初当選[2]。4年後の第19回衆議院議員総選挙では次点に終わったが[3]1937年第20回衆議院議員総選挙で2度目の当選を果たした[4]1939年の政友会分裂に際しては鳩山や久原房之助らとともに正統派に与した。政党解消後は翼賛議員同盟に所属し、1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選[5]。その後は翼賛政治会大日本政治会に所属した。また外務参与官陸軍参与官も歴任し、終戦後は東久邇宮内閣の政治顧問を務めた。

終戦後の政党復活に際しては、旧政友会正統派時代に依光が党内でも久原に近かったことから旧政友会正統派内の鳩山系議員が中心となって結党した日本自由党にも旧日政会所属議員が結党した日本進歩党にも参加せず、依光と同じく久原系の岡田忠彦津雲国利西村茂生肥田琢司東条貞松浦伊平らとともに無所属を貫くとみられたが[6]、依光は旧久原系の議員らと袂を分かち進歩党の結党に参加した。日政会を母胎にしたとはいえ進歩党所属議員の大半は政党解消以前は立憲民政党・政友会革新派・政友会統一派に所属しており、政友会正統派に所属していた議員で進歩党結党に参加した者は依光以外では猪野毛利栄西川貞一綾部健太郎高畠亀太郎中井一夫三善信房の6名のみである[7]。また依光と同じく戦前政友会正統派に所属していた三土忠造は進歩党と連携し、進歩党が与党となった幣原内閣にも入閣したが、進歩党の結党自体には参加しなかった。なおこの時依光と袂を分かった旧久原系議員の岡田・津雲・西村・肥田・東条・松浦らは旧護国同志会所属議員や旧翼壮議員同志会所属議員らとともに院内会派の無所属倶楽部を結成した[8]

翼賛選挙で推薦候補だったため公職追放。追放解除後は日本再建連盟の常任理事となり、1952年第25回衆議院議員総選挙では再建連盟公認で旧高知県全県区から出馬したが次点に終わった。1955年第27回衆議院議員総選挙では日本民主党公認で、1958年第28回衆議院議員総選挙では無所属で出馬するもともに落選し、政界から引退した。

政治活動の傍ら母校・専修大学の専務理事・理事長も務めた[1]

脚注・出典

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  1. ^ a b c d e f 『高知県人名事典 新版』、927-928頁。
  2. ^ 第18回衆議院議員選挙 - 高知2区
  3. ^ 第19回衆議院議員選挙 - 高知2区
  4. ^ 第20回衆議院議員選挙 - 高知2区
  5. ^ 第21回衆議院議員選挙 - 高知2区
  6. ^ 第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説 - 歴史学者古屋哲夫の公式サイト・古屋哲夫の足跡内のページ。
  7. ^ 『戦時議会史』、536-537頁。
  8. ^ 『戦時議会史』、538-539頁。

参考文献

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