三条西実隆
三条西実隆像紙形(土佐光信筆) | |
時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
生誕 | 康正元年4月25日(1455年5月11日) |
死没 | 天文6年10月3日(1537年11月5日) |
改名 | 公世(初名)→公延→実隆 |
別名 | 号:逍遙院 |
墓所 | 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町の二尊院 |
官位 | 正二位・内大臣 |
主君 | 後土御門天皇→後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 三条西家 |
父母 | 父:三条西公保、母:甘露寺房長娘 |
兄弟 | 実連、実隆 |
妻 | 正室:勧修寺教秀三女 |
子 |
公順、公条、桂陽、保子、 正親町実胤室、勝興寺左計室 |
三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。内大臣・三条西公保の次男。官位は正二位・内大臣。能書家でもあった[1]。
経歴
[編集]京都武者小路の邸で誕生した。当初の名は公世。
長禄2年(1458年)、兄・実連が死去し、家督相続者として扱われ従五位下に叙され、このとき公延と改名する。2日後に侍従に任官。寛正元年(1460年)、父・公保が死去する。このため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。
応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開。乱により三条西邸も焼失している。文明元年(1469年)、元服と同時に右近衛権少将に進み、実隆と改名する。永正3年(1506年)、内大臣となるが在職わずか2か月、任大臣大饗も開かずに致仕。永正13年(1516年)に出家。
人物
[編集]後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門の寵妃や、後柏原の女御で後奈良の生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。
室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭国守護・武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。古筆の鑑定も能くし、宗祇から小倉懐紙の鑑定を依頼されたことが『実隆公記』にみえる。また、連歌師の山崎宗鑑とも親しく交友した。武野紹鴎に茶道を教え、大和国国人の十市遠忠に和歌を教えるなど、貴族に多大な影響を与えた[2]。将棋、囲碁にも熱中し、将棋の駒の字も書いた[3]。
また、周防国の大内義隆や駿河国の今川氏親とも親交が深かった。なお、実隆には当時としては珍しく側室がいなかった。
漢文日記『実隆公記』は、史料的価値もある。歌集に『雪玉集』『聞雪集』、著作に『詠歌大概抄』『高野山参詣記』など。源氏物語に関しては、系図として革新的な『実隆本源氏物語系図』を作った他、子・公条が『明星抄』を著す基礎も作った。浄土宗を信仰していた。
系譜
[編集]伝記・研究
[編集]参考文献
[編集]- 原勝郎『東山時代に於ける一縉紳の生活』(講談社学術文庫、1990年) ISBN 406158250X
脚注
[編集]- ^ “【戦国こぼれ話】現在は学者受難の時代?戦国時代は重要だった知識人たち!(渡邊大門)”. Yahoo!ニュース (2020年10月5日). 2020年12月22日閲覧。
- ^ 源城政好編『図解雑学戦国史』(ナツメ社、2005年)151頁
- ^ 増川宏一『碁』(法政大学出版局、1987年)P.60
- ^ 『雲竜山勝興寺系譜』
- ^ 原勝郎 東山時代における一縉紳の生活