ロベルト・プルッツォ
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名前 | ||||||
愛称 | Il Bomber[1]、O Rei di Crocefieschi[1] | |||||
ラテン文字 | Roberto Pruzzo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イタリア | |||||
生年月日 | 1955年4月1日(69歳) | |||||
出身地 | クロチェフィエスキ | |||||
身長 | 178cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1971-1973 | ジェノアCFC | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1973-1978 | ジェノアCFC | 143 | (57) | |||
1978-1988 | ASローマ | 240 | (106) | |||
1988-1989 | ACFフィオレンティーナ | 13 | (1) | |||
代表歴2 | ||||||
1978-1982 | イタリア | 6 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1998-1999 | ヴィアレッジョ | |||||
1999-2000 | テーラモ | |||||
2000-2001 | アレッサンドリア | |||||
2002 | パレルモ | |||||
2004-2005 | フォッジャ (アシスタント) | |||||
2005-2006 | サンベネデッテーゼ (アシスタント) | |||||
2008-2009 | SSDチェントブキ | |||||
2009 | ジェノアCFC (ユース) | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。年月日現在。 2. 年月日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ロベルト・プルッツォ(Roberto Pruzzo,1955年4月1日 - )は、イタリア・リグーリア州ジェノヴァ県クロチェフィエスキ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。空中戦の強さを活かして多くのゴールを挙げ、同世代ではイタリア最高のストライカーの一人とされ、ASローマ最高の選手の一人とされる。プルッツォのキャリアにおいて、ハードワークをこなし、得点能力の高いセンターフォワードとして知られた[2]。
選手経歴
[編集]クラブ
[編集]ジェノヴァ県のクロチェフィエスキ出身で、15歳の時、ジェノアCFCのユースチームに入団。チームがセリエAに昇格した1973年、18歳でトップチームに合流し、12月2日のチェゼーナ戦でプロデビューした[1]。初年度は19試合に起用されたが、無得点に終わり、チームはセリエBに降格した[1]。翌1974-75シーズン、セリエBでリーグ戦12得点を挙げた[1]。1975-76シーズンにはセリエBで優勝し、そのシーズンのセリエBの得点王に輝いた[1]。1976-77シーズン、10月3日のASローマ戦でセリエA初得点を挙げた[1]。このシーズン、惜しくもセリエAの得点王には届かなかったが、リーグ戦で18ゴールを決め、フランチェスコ・グラツィアーニに次いでランキング2位となった[1]。1977-78シーズン、キャプテンに就任したが、このシーズンは9得点に終わった[1]。6シーズン在籍したジェノアでは、163試合68得点を記録した[1]。
1978-79シーズン、ユヴェントスとASローマが争奪戦を繰り広げたが、ローマが獲得した[1]。プルッツォは1980年代のイタリアで最も優秀なストライカーとなり、1982-83シーズンにセリエA制覇し、コッパ・イタリアも4度優勝を経験した。セリエA得点王に3度輝き、コッパ・イタリアでも得点王になった。ホームのオリンピコで行われたリヴァプールFCとのUEFAチャンピオンズカップ 1983-84決勝では、ゴールを挙げたがチームはPK戦で敗れた。
1986年のセリエA・USアヴェッリーノ1912戦において、イタリア人としては唯一となる1試合5得点を記録した。ローマでは公式戦318試合で138得点を挙げた[1]。
1989年にACFフィオレンティーナに移籍した。このシーズンのリーグ戦では13試合に出場したのみに終わったが[1]、来シーズンのUEFAカップ出場権をかけた古巣ローマとのプレーオフでは、ステファーノ・ボルゴノーヴォが起用出来ないことから、先発起用された[1]。ロベルト・バッジョのアシストから決勝点を記録し、フィオレンティーナのUEFAカップ出場権獲得に貢献した[3]。この試合を最後に現役を引退した[1]。
代表
[編集]クラブでの実績にも関わらず、イタリア代表では1978年から1982年に6試合に出場したのみとなっている。1978年9月23日にトルコ戦でフル代表デビュー[1]。イタリアで開催されたEURO1980のメンバーに選出され、イタリアは4位となり、1980 ムンディアリートにも出場した[4][5]。1982 FIFAワールドカップは代表メンバーから外れ、出場できなかった[6]。
指導者経歴
[編集]1990年代後半から指導者としてのキャリアをスタートさせ、ヴィアレッジョ、テーラモ、アレッサンドリアの監督を務め、フランコ・センシから新たにマウリツィオ・ザンパリーニがオーナーになったばかりのパレルモ でも監督を務めた。その後、フォッジャ、サンベネデッテーゼでアシスタントコーチを務めた。
2008年12月[7]から2009年3月まで、セリエDのアマチュアクラブのSSDチェントブキで監督を務めた[8]。
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- ジェノアCFC
- セリエB:1回 (1975-76)
- ASローマ
- セリエA:1回 (1982-83)
- コッパ・イタリア:4回 (1979-80,1980-81,1983-84,1985-1986)
個人
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “Roberto Pruzzo, 'O Rei de Crocefieschi': l'indimenticato bomber di Genoa e Roma”. GOAL (2022年4月1日). 2023年9月1日閲覧。
- ^ “Il personaggio: ROBERTO PRUZZO”. 19 January 2015閲覧。
- ^ “Il passato e' domani: Fiorentina in coppa Uefa” (Italian). Sport Mediaset. 19 January 2015閲覧。
- ^ ロベルト・プルッツォ - National-Football-Teams.com
- ^ “Nazionale in cifre: Pruzzo, Roberto” (Italian). figc.it. FIGC. 22 April 2015閲覧。
- ^ “Bearzot: 'Football is first and foremost a game'”. FIFA.com. 9 March 2017閲覧。
- ^ “Pruzzo riparte dal Centobuchi” (Italian). La Roma 24. (2 December 2008) 12 March 2010閲覧。
- ^ “Bomber Pruzzo esonerato dal Centobuchi” (Italian). Il Tempo. (28 March 2009) 12 March 2010閲覧。
- ^ “Italy - Coppa Italia Top Scorers”. RSSSF (4 June 2015). 15 June 2015閲覧。
- ^ “Hall of Fame 2014: Ghiggia, Ancelotti, Voeller and Candela inducted”. asroma.it. 22 April 2015閲覧。