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ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムハンマド1世
アラビア語: محمد بن عبد الرحمن الأوسط
後ウマイヤ朝アミール
ムハンマド1世時代に鋳造されたディルハム銀貨
在位 852年 - 886年

全名 ムハンマド・イブン・アブド・アッラフマーン・アル=アウサット
出生 822年
後ウマイヤ朝コルドバ
死去 886年
後ウマイヤ朝コルドバ
子女 アル・ムンディル
アブドゥッラー
家名 ウマイヤ家
王朝 後ウマイヤ朝
父親 アブド・アッラフマーン2世
母親 ナーティス
宗教 イスラム教スンナ派
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ムハンマド1世アラビア語: محمد بن عبد الرحمن الأوسط‎, 822年 - 886年)は、後ウマイヤ朝の第5代アミール(在位:852年 - 886年)。

生涯

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ムハンマドはコルドバで生まれた。その治世には、ムラディ(イベリア出身のイスラム教徒)とモサラベ(キリスト教徒)のいくつかの反乱と分離運動が起こった。

ムーサー・ブン・ムーサーに率いられたムラディのカシー家スペイン語版ナバラ王国イニゴ家と同盟を結んで反乱を起こし、(ムハンマド1世とアストゥリアスオルドーニョ1世に続く)「スペインの3番目の王」と自ら名乗った。反乱を起こしたウマイヤ朝の将校イブン・マルワーン・アルジッリーキー英語版メリダに戻り、ムハンマド1世に対しても反乱を起こした。ムハンマド1世は反乱を鎮圧することができず、875年にイブン・マルワーンに対し自由都市(現在のエストレマドゥーラ州バダホス)を建設することを許可した。最終的にトレドの町はオルドーニョ1世の支援を受け反乱を起こしたが、グアダラセテの戦いにおいて敗北した。

ムハンマド1世は西フランク王であるシャルル禿頭王と外交交渉を行い、865年にラクダを送った。

880年、西ゴートあるいはアフリカ出身のウマル・ブン・ハフスーンも反乱を起こし、928年にアブド・アッラフマーン3世のもとで鎮圧された。

ムハンマド1世は886年に死去し、息子ムンジルが跡を継いだ。

参考文献

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  • Altamira, Rafael (1999). “Il califfato occidentale”. Storia del mondo medievale. II. pp. 477–515 
  • Calmet, Augustin, 1672-1757. (1767). Histoire Universelle, Sacrée Et Profane. Chez Jean Renauld Doulssecker. OCLC 314190685