ハプスブルク=ロートリンゲン家
ハプスブルク=ロートリンゲン家 Haus Habsburg-Lothringen | |
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国 |
神聖ローマ帝国 オーストリア帝国 オーストリア=ハンガリー帝国 メキシコ帝国 トスカーナ大公国 モデナ公国 パルマ公国 |
主家 |
ハプスブルク家(女系) ロレーヌ家(男系) |
創設 | 1736年[注釈 1] |
家祖 | フランツ・シュテファンとマリア・テレジア |
現当主 | カール・ハプスブルク=ロートリンゲン |
滅亡 |
オーストリア=ハンガリー: 1918 – カール1世は、第一次世界大戦の終結後、国事不関与を宣言 |
分家 |
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ハプスブルク=ロートリンゲン家(ハプスブルク=ロートリンゲンけ、独: Haus Habsburg-Lothringen)は、ロレーヌ家出身の神聖ローマ皇帝兼トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファン(フランツ1世)とハプスブルク家のオーストリア女大公兼ハンガリー・ボヘミア女王マリア・テレジア夫妻に始まる家系である。
神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家が正式名称である。これはハプスブルク家のライオンとともにロレーヌの公章が描かれた紋章にも表れている。
現在の家長は、最後のオーストリア皇帝カール1世の孫のカール・ハプスブルク=ロートリンゲン。
概要
[編集]ロレーヌ家
[編集]ロレーヌ家は、現在はフランスのドイツとの国境地帯であるロレーヌ地方にあったロレーヌ公国を統治した家系である。ロレーヌは古のロタリンギアに由来し、カロリング朝期にはフランク王国の心臓部とも言うべき場所であった。従って領域は小さいものの、地理的には非常に重要な位置にあるため、その帰属を巡って紛争が絶えなかった。15世紀にはブルゴーニュのシャルル突進公が自領の間に挟まったロレーヌの併合を企てたが、ナンシーの戦いに敗れて自身とブルゴーニュ公国の破滅を招いた。この戦いで突進公を敗死させたロレーヌ公ルネ2世は、フランツ・シュテファンの直接の先祖である(ちなみにフランツ・シュテファンはシャルル突進公の血も引いている)。ルネ2世は母方のヴァロワ=アンジュー家から公位を継承しているが、父方のヴォーデモン家は母方の祖母イザベル女公まで続いていたロレーヌ家(シャトノワ家)の傍系であり、以後フランツ・シュテファンまでの歴代のロレーヌ公はこの家系から出た。また、ルネ2世の次男ギーズ公クロードに始まる分枝のギーズ家は、ヴァロワ朝後期にフランスで権勢を振るった。
1630年代以降、ロレーヌ公国はたびたびフランス王ルイ14世の侵略を受け、ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命してハプスブルク家の皇帝に仕え、以後もハプスブルク家との関係を深めた。14世紀初め、アルブレヒト1世の娘エリーザベトとロレーヌ公フェリー4世の結婚からハプスブルク家とロレーヌ家の関係は始まっていたものの、それまでロレーヌ家はフランス王家との関係が強かった。シャルル5世は在位中に公国を統治できず名目のみに終わったロレーヌ公であるが、皇帝フェルディナント3世の娘エレオノーレと結婚し、嗣子レオポルトをオーストリア領内でもうけている。レオポルトは1697年のレイスウェイク条約でロレーヌを一旦返還され、翌1698年にルイ14世の姪エリザベート・シャルロットと結婚した。フランツ・シュテファンは2人の間の息子である。
フランツ・シュテファンはロレーヌ家の当主であり、皇帝フェルディナント3世とフランス王ルイ13世の曾孫でもあった。又従妹であるマリア・テレジアとは恋仲であったが、結婚とともに帝位継承者となるに際して、その国際的承認と引き換えにロレーヌをフランス王ルイ15世に譲渡しなければならなかった。ルイ15世はロレーヌ公位を舅の元ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキに与え、その死後にフランス王領へ併合した。代償としてフランツはトスカーナ大公国の大公位を継承した。フランツは父方からメディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の長女エレオノーラ・デ・メディチの、母方から六女マリー・ド・メディシスの血を引いていた。
オーストリア継承戦争
[編集]神聖ローマ皇帝カール6世は帝位および家督を継がせる男子を得られず、同族にも後継者たり得る男子がなかったため、国事詔書に基づいて娘マリア・テレジアを相続人とし、ハプスブルク家領およびボヘミアやハンガリーの王位、オーストリア大公位などを継がせ、帝位にはその夫のロレーヌ公フランツ・シュテファンを就かせることを取り決めた。そして、神聖ローマ帝国の諸侯にこれを承認させた。
カール6世が1740年に没すると、プロイセン王フリードリヒ2世、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト、ポーランド王兼ザクセン選帝侯アウグスト3世らがルイ15世と同盟を結び、先の取り決めを無視して領土の割譲や帝位を要求し、オーストリア継承戦争が勃発した。カール・アルブレヒトとアウグスト3世はそれぞれカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘(マリア・テレジアの従姉)マリア・アマーリエとマリア・ヨーゼファを妃としており、妻の相続権を主張していた。この戦争によってオーストリアはフリードリヒ2世にシレジアを奪われ、またカール・アルブレヒトがボヘミアを一時占領した上に皇帝カール7世として戴冠した。しかしマリア・テレジアの下でオーストリアは反撃に転じ、シレジアを取り戻すことはできなかったものの、ボヘミアからバイエルンを撃退し、カール7世がわずかな在位期間ののち1745年に没すると、フランツ・シュテファンがフランツ1世として皇帝位に就いた。以後、神聖ローマ皇帝位は帝国の解体までフランツ1世、およびフランツ1世とマリア・テレジアの子孫によって継承された。
ブルボン家との同盟
[編集]ハプスブルク家とフランス王家は長年にわたり敵対関係にあったが、マリア・テレジアの下で「外交革命」と呼ばれる外交方針の転換がなされ、両者の間に同盟関係が成立した。その一環として、フランツとマリア・テレジアの子女と、フランス・スペイン・イタリアのブルボン家諸家の間で政略結婚が頻繁に行われた。ハプスブルク・ブルボンの両家は古くから近親婚を重ねており、またブルボン家はハプスブルク家ともロレーヌ家とも色濃い血縁関係があったことから、両家の間でさらに近親婚を繰り返したことで早世したり体に障害を持った人物が続出した。
また、ブルボン家との関係の重視は反面でドイツ諸邦との関係の弱体化につながった。ハプスブルク家の皇帝は大国フランスに対抗する存在としてドイツ諸邦(これにはかつてのロレーヌ公国も含まれる)から支持されてきた一面があり、両大国が手を結んだことで諸侯は危機感を募らせた。それはやがてプロイセンに対するドイツ諸侯の支持を相対的に高め、神聖ローマ帝国の崩壊に始まり、普墺戦争を経て、ドイツ統一の主導権をプロイセンに奪われる結果につながった。さらに、南北イタリアのブルボン家との結びつきもハプスブルク家の北イタリア支配の維持にはつながらず、両家はともにサルデーニャ王国によるイタリア統一によってその座を追われた。
家系の主な系統
[編集]フランツ・シュテファンの弟カール・アレクサンダー公子はマリア・テレジアの妹マリア・アンナと結婚している(二重結婚)が、兄姉夫婦の子孫が大いに繁栄したのと対照的に、こちらは子孫を残せなかった。
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの間には5人の男子がいたが、次男カール・ヨーゼフは成人に達せずに早世し、長男ヨーゼフ2世と五男マクシミリアン・フランツには子供がなかったため、三男レオポルト2世の系統と四男フェルディナントの系統のみが家系として継続した。フェルディナントの系統は19世紀に断絶しており、現存する系統はいずれもレオポルト2世の男系子孫である。
オーストリア皇帝家
[編集]ハプスブルク=ロートリンゲン家の宗家にあたる。神聖ローマ皇帝・オーストリア大公の他にハンガリー王、ボヘミア王も兼ねていた。神聖ローマ帝国は1806年に解体し、フランツ2世は帝位を降りたが、これに先立つ1804年からオーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後はこの皇帝位がオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファンとマリア・テレジアの夫妻から最後のカール1世まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。
フランツ・シュテファンとマリア・テレジアの長男ヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア大公位およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、子供がなく、トスカーナ大公位を継承していた弟レオポルト2世が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世からフランツ2世/1世、フェルディナント1世までは直系継承が続いたが、子供のないフェルディナント1世が1848年の3月革命で退位すると、弟フランツ・カール大公(帝位を辞退)の長男フランツ・ヨーゼフ1世が即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアンはメキシコ帝国の皇帝となったが、メキシコの自由主義勢力によって銃殺刑に処せられた。
フランツ・ヨーゼフ1世の下、1867年にオーストリア帝国はオーストリア=ハンガリー二重帝国に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行うという体制であった。フランツ・ヨーゼフは唯一の息子であった皇太子ルドルフの死後、甥のフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者としたが、1914年のサラエヴォ事件で暗殺され、これがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発する。大戦中にフランツ・ヨーゼフは死去し、フランツ・フェルディナントの甥カール1世が帝位を継ぐが、大戦末期の1918年に帝国は滅亡し、オーストリア共和国が成立するとともに、ハンガリーやチェコスロヴァキアを始めとする多くの国々が独立した。カール1世はハプスブルク法を拒絶して亡命し、1922年に病死した。
6歳足らずで皇太子の地位を失ったカール1世の長男オットーは、20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員を務めた。オットーは2011年に98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家の家長の座は2006年に高齢を理由として長男カールに譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリア選出である。
歴代君主
[編集]名前 | 神聖ローマ皇帝 | オーストリア皇帝 | オーストリア大公 | ハンガリー王 | ボヘミア王 | その他 |
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フランツ1世 | 1745年 - 1765年 |
― | ― | ― | ― | ロレーヌ公(譲位) トスカーナ大公 チェシン公 |
マリア・テレジア | ― | ― | 1740年 - 1780年 |
1740年 - 1780年 |
1743年 - 1780年 |
パルマ女公(譲位) |
ヨーゼフ2世 | 1765年 - 1790年 |
― | 1780年 - 1790年 |
1780年 - 1790年 |
1780年 - 1790年 |
― |
レオポルト2世 | 1790年 - 1792年 |
― | 1790年 - 1792年 |
1790年 - 1792年 |
1790年 - 1792年 |
トスカーナ大公(譲位) |
フランツ2世/ フランツ1世 |
1792年 - 1806年 |
1804年 - 1835年 |
1792年 - 1835年 |
1792年 - 1835年 |
1792年 - 1835年 |
― |
フェルディナント1世 | ― | 1835年 - 1848年 |
1835年 - 1848年 |
1835年 - 1848年 |
1835年 - 1848年 |
― |
フランツ・ヨーゼフ1世 | ― | 1848年 - 1916年 |
1848年 - 1916年 |
1848年 - 1916年 |
1848年 - 1916年 |
― |
カール1世 | ― | 1916年 - 1918年 |
1916年 - 1918年 |
1916年 - 1918年 |
1916年 - 1918年 |
― |
トスカーナ大公家
[編集]トスカーナ大公国は元来メディチ家が統治していたが、1737年に同家が断絶するとフランツ・シュテファンが大公フランチェスコ2世として継承した。しかしトスカーナはハプスブルク家の本領とは独立して統治される(本領を治める当主がトスカーナ大公を兼ねない)ことになり、フランツ・シュテファンから次男レオポルト2世へ、レオポルトが帝位を継いだ後はその次男フェルディナンド3世へと大公位が継承された。フェルディナンド3世をもってトスカーナ大公家(ハプスブルク=トスカーナ家)の始まりとする。
歴代の大公は良きトスカーナ人たろうと努めたが、それでもリソルジメントの波には勝てず、フェルディナンド4世が1860年に廃位され、住民投票の結果、サルデーニャ王国へ併合されて大公国は消滅した。大公国の首都フィレンツェは統一イタリア政府の暫定的首都になった。トスカーナ大公家はその後、オーストリアの宗家を頼ってオーストリア貴族として存続し、家系は帝国の滅亡後も現在まで続いている。
歴代君主
[編集]- フランチェスコ2世(1737年 - 1765年) 神聖ローマ皇帝フランツ1世
- レオポルド1世(1765年 - 1790年) 神聖ローマ皇帝レオポルト2世(帝位継承の際に大公位を譲位)
- フェルディナンド3世(1790年 - 1799年、1814年 - 1824年)
- (ナポレオン戦争による中断:1799年 - 1814年)
- レオポルド2世(1824年 - 1859年) 生前に大公位を譲位
- フェルディナンド4世(1859年 - 1860年) 廃位
モデナ公家
[編集]モデナ公国は元来エステ家が統治していたが、1803年エルコレ3世が男子を残すことなく没して断絶した。エルコレ3世はフランツ・シュテファンの四男フェルディナント大公を相続人に指名し、また娘マリーア・ベアトリーチェ・デステと結婚させていた。フェルディナントはオーストリア=エステ大公を称し、新たなモデナ公家としてオーストリア=エステ家を興すが、ナポレオン戦争のさなかにあって公位を継ぐことができないまま1806年に没し、息子フランチェスコ4世が1814年に再興されたモデナ公国の公位に就いた。しかしモデナ公国もリソルジメントの中、1860年にサルデーニャ王国に併合された。
公国を追われたフランチェスコ5世には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はフランツ・フェルディナント大公が継承した。ただし、フランツ・フェルディナントはオーストリア=エステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は甥カール1世へ、カールの皇帝即位後は次男ローベルトへと公位は継承された。なお、カール1世は上記のフェルディナント大公とマリーア・ベアトリーチェ夫妻の長女の玄孫にあたるツィタと結婚したため、ローベルト以降の子孫はオーストリア=エステ家との血統上の繋がりがある。
現在のモデナ公、オーストリア=エステ大公ローレンツはローベルトの息子であるが、ベルギー王女アストリッドと結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も有する。
- モデナ公国の君主
チェシン公家
[編集]シレジア南東部にあったチェシン公国(ドイツ語ではテシェン公国)は、ピャスト家支族によって治められていたが、女公エルジュビェタ・ルクレツィアが1653年に没した後、ボヘミア王としてのハプスブルク家君主の支配下に入った。しかし、皇帝カール6世の時代にロレーヌ公レオポルトに譲られ、レオポルトの死後は息子フランツ・シュテファンが受け継いだ。
フランツ・シュテファンが皇帝位に就いたことで、チェシン公位は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナと同様にハプスブルク家の本領とは別に相続されることになり、フランツの死後は長男ヨーゼフ2世を経てその妹マリア・クリスティーナが夫のザクセン公子アルベルト・カジミールと共同で受け継いだ。夫妻には実子がなかったため、マリア・クリスティーナの弟である皇帝レオポルト2世の三男カール大公を養子として公国を相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝フランツ1世の治世に、オーストリア軍司令官としてフランス革命戦争およびナポレオン戦争において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系が新たなチェシン公家(ハプスブルク=テシェン家)となった。
この家系からは第一次世界大戦時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めたフリードリヒ大公、ポーランド国王候補にもなったカール・シュテファン大公、両シチリア王フェルディナンド2世妃マリーア・テレーザ、スペイン王アルフォンソ12世妃マリア・クリスティーナなどが出ている。
チェシン公国は第一次世界大戦後にチェコスロヴァキアとポーランド第二共和国の間で分割されて消滅した。チェシン公家の血筋はその後も続いている。
その他
[編集]皇帝レオポルト2世の七男ヨーゼフ・アントン大公は、早世した兄アレクサンダー・レオポルト大公に代わって1796年にハンガリー副王(もしくはハンガリー宮中伯、nádor)の地位に就いた。この家系もまたハプスブルク=ロートリンゲン家の有力な分家の一つとなっており、ベルギー王レオポルド2世妃マリー=アンリエット、第一次世界大戦後に新たなハンガリー王国の国王に一時擁立されたヨーゼフ・アウグスト大公などが出ている。
主要な家系としては他に、レオポルト2世の十男でロンバルド=ヴェネト王国の副王となったライナー・ヨーゼフ大公の家系があり、サルデーニャ王、のち初代イタリア王となるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王妃マリーア・アデライデなどが出ている。
貴賤結婚のためハプスブルク=ロートリンゲンの家名を許されなかった家系としては、レオポルト2世の九男で「アルプス王」と呼ばれたヨハン大公と平民の娘アンナ・プロッフルの間の息子の家系であるメラン伯爵家、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と伯爵令嬢ゾフィー・ホテクの間の子供の家系であるホーエンベルク公爵家が知られる。
現代
[編集]1736年に結婚したフランツ・シュテファンとマリア・テレジアを始祖とするハプスブルク=ロートリンゲン家は、その後の約300年間で、500人以上に膨れ上がった[2][3][4]。一門の約半分はオーストリアに住んでおり、残りは他のヨーロッパ、アメリカ、アフリカに散らばっている[4][注釈 2]。家督相続方法として準サリカ法を採用しているが、構成員が数多いうえに全大陸に散在しているため、現実的に男系血統が断絶する可能性は皆無に等しい。
一門は緊密に連絡を取り合っている。ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲンによると、WhatsAppにハプスブルク=ロートリンゲン一族だけのグループがあり、280人が参加しているという[3]。一門に属するほとんどの者が第一次世界大戦を起こした責任を問われた経験があることから、開戦100周年を迎える2014年には統一的な歴史解釈が作成された[4]。2016年11月5日、一門およそ300人でバチカン宮殿を訪れ、ローマ教皇フランシスコに拝謁した[7][8]。
1918年の帝政崩壊後もしばらくは貴賤結婚を厳格に禁止しており、貴賤結婚をした者には別の家門を興させるなどした(例:クレメンス・サルヴァトールの「アルテンブルク家」)。今日では婚姻基準が大幅に緩和されており、もはや相手は王侯貴族でなくてもよい。当主に事前報告し、カトリックの伝統を守って結婚するだけで基本的にはよいという。
Es geht nicht darum, die Heirat zu bewilligen oder zu verhindern. Aber ich möchte schon vorab informiert sein, wer wen heiratet.
(結婚を承認したり、阻止したりするのではありません。誰が誰と結婚するかを事前に知りたいのです。) — 宗家当主カール・ハプスブルク=ロートリンゲン、2014年[9]
貴賤結婚を禁止する規定が事実上撤廃された後、帝政廃止後に貴賤結婚した一族に対して、伯爵位が与えられたり、同等結婚への昇格措置が取られたりしている[注釈 3]。
現代のハプスブルク=ロートリンゲン家は、とりわけハンガリーにおいて厚遇されている[10]。ハンガリー人材大臣バログ・ゾルターンは在任中に「我々は他国よりもはるかに愛情深く、オーストリアよりも愛情深く、ハプスブルク家の遺産を育てることに決めた」と述べた[10]。2017年夏、ハプスブルク家からの提案を受けたハンガリー政府は、最後の皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの遺産を取り扱うオットー・ハプスブルク財団を設立した[11]。2019年12月現在、ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲンがハンガリー外交官を、ハンガリー支流出身のエドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲンがハンガリーの駐バチカン大使を務めている[10]。
なお、オーストリアのシュヴァルツ=ゲルベ・アリアンツやチェコのコルナ・チェスカなど、旧帝国の領域には親ハプスブルク=ロートリンゲン家を掲げる君主主義組織も存在しているが、党勢はいずれも微弱である。
系図
[編集]フランツ・シュテファンまで
[編集]- 凡例
ハプスブルク=ロートリンゲン家
[編集]レオポルト ロレーヌ公 | カール6世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ1世 ロレーヌ公 トスカーナ大公 神聖ローマ皇帝 | マリア・テレジア ハンガリー女王 ボヘミア女王 | マリア・アンナ | カール・アレクサンダー | エルコレ3世 モデナ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨーゼフ2世 神聖ローマ皇帝 | マリア・クリスティーナ テシェン女公 | アルベルト・カジミール テシェン公 | カール・ヨーゼフ | レオポルト2世 トスカーナ大公 神聖ローマ皇帝 | マリーア・ベアトリーチェ・デステ | フェルディナント | マクシミリアン・フランツ ケルン大司教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ2世/1世 神聖ローマ皇帝 オーストリ皇帝 | フェルディナンド3世 トスカーナ大公 | カール テシェン公 | アレクサンダー・レオポルト | ヨーゼフ・アントン | ヨハン | ライナー・ヨーゼフ | フランチェスコ4世 モデナ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリー・ルイーゼ フランス皇后 パルマ女公 | フェルディナント1世 オーストリア皇帝 | フランツ・カール | レオポルド2世 トスカーナ大公 | (メラン伯爵) | フランチェスコ5世 モデナ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ・ヨーゼフ1世 オーストリア皇帝 | マクシミリアン メキシコ皇帝 | カール・ルートヴィヒ | フェルディナンド4世 トスカーナ大公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ オーストリア皇太子 | フランツ・フェルディナント | オットー・フランツ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ホーエンベルク家) | カール1世 オーストリア皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー オーストリア皇太子 | ローベルト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール | ローレンツ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オーストリア皇帝家
[編集]フランツ2世/1世 神聖ローマ皇帝 オーストリア皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナポレオン1世 フランス皇帝 | マリー・ルイーゼ フランス皇后 パルマ女公 | フェルディナント1世 オーストリア皇帝 | フランツ・カール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ナポレオン2世 ライヒシュタット公 | フランツ・ヨーゼフ1世 オーストリア皇帝 | マクシミリアン メキシコ皇帝 | カール・ルートヴィヒ | ルートヴィヒ・ヴィクトル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドルフ オーストリア皇太子 | フランツ・フェルディナント | オットー・フランツ | フェルディナント・カール | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ホーエンベルク家) | カール1世 オーストリア皇帝 | マクシミリアン・オイゲン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー オーストリア皇太子 | アルベール2世 ベルギー王 | ローベルト エスターライヒ=エステ大公 | フェリックス | カール・ルートヴィヒ | ルドルフ | フェルディナント | ハインリヒ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール | ゲオルク | アストリッド ベルギー王女 | ローレンツ | ゲルハルト | マルティン | カール・フィリップ | ルドルフ | ジメオン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナント | アメデオ ベルギー王子 | ジョアシャン ベルギー王子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トスカーナ大公家
[編集]フェルディナンド3世 トスカーナ大公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルド2世 トスカーナ大公 | マリア・テレーザ サルデーニャ王妃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェルディナンド4世 トスカーナ大公 | カルロ | ルイージ | ジョヴァンニ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルト | ヨーゼフ | ペーター | ハインリヒ | レオポルト | ブランカ スペイン王女 | フランツ | マリー・ヴァレリー フランツ・ヨーゼフ1世皇女 | アルブレヒト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゴットフリート | ゲオルク | ハインリヒ | ライナー | レオポルト | アントン カルリスタ王位請求者 | フランツ・ヨーゼフ カルリスタ王位請求者 | カール・ピウス カルリスタ王位請求者 | フランツ・カール | フーベルト | テオドール | クレメンス (アルテンブルク家) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルト・フランツ | ウルリヒ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジギスムント | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テシェン(チェシン)公家
[編集]アルベルト・カジミール テシェン公 | マリア・クリスティーナ テシェン女公 | レオポルト2世 トスカーナ大公 神聖ローマ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール テシェン公 | ヨーゼフ・アントン | ライナー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリア・テレーザ 両シチリア王妃 | アルブレヒト テシェン公 | カール・フェルディナント | エリーザベト・フランツィスカ | フェルディナント・カール (モデナ公家) | フリードリヒ | マリア・カロリーネ | ライナー | ヴィルヘルム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ テシェン公 | マリア・クリスティーナ スペイン王妃 | カール・シュテファン | オイゲン | マリア・テレジア バイエルン王妃 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルブレヒト | カール・アルブレヒト | レオ・カール | ヴィルヘルム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カロル・ステファン | レオ・シュテファン | フーゴー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハンガリー副王家
[編集]ヨーゼフ・アントン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
シュテファン | フェルディナント・カール (モデナ公家) | エリーザベト・フランツィスカ | カール・フェルディナント (テシェン公家) | ヨーゼフ・カール | マリー・ヘンリエッテ ベルギー王妃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨーゼフ・アウグスト | ラディスラウス・フィリップ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨーゼフ・フランツ | ラディスラウス・ルイトポルト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨーゼフ・アールパード | イシュトヴァーン | ゲーザ | ミヒャエル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エドゥアルト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ライナー系
[編集]ライナー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリア・アデライデ サルデーニャ王妃 | レオポルト | エルンスト | ジギスムント | ライナー | マリア・カロリーネ (テシェン公家) | ハインリヒ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ヴァルブルク家) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ただし事実上ハプスブルク家からの連続
- ^ 数え方によって、現代のハプスブルク=ロートリンゲン一門の総人数は大きく変動する。ヘルゲ・レインドル(Helge Reindl)によると、2014年時点で600~800人である[5]。また、彼によるとオーストリア在住の一門は100~150人だという[5]。レオポルト・アルテンブルクによると、分家であるアルテンブルク家も肥大化しており、2018年の集まりには約150人が参加したという[6]。
- ^ ホーエンベルク公爵家のように帝政時代に貴賤結婚した家系については対象外となっている。
出典
[編集]- ^ “Felavatták IV. Károly szobrát Budapesten”. Origo.hu. (2016年11月28日) 2019年10月5日閲覧。
- ^ Horst Thoren (2018年10月18日). “Karl von Habsburg: "Die Monarchie ist nicht von gestern"”. Rheinische Post 2019年10月5日閲覧。
- ^ a b Szabó Botond Zsolt (2019年3月30日). “„Magyar vagyok, nem osztrák” – Habsburg György Európáról, magyarságról, habsburgságról”. Mandiner 2019年10月5日閲覧。
- ^ a b c Bernhard Ecker (2018年4月). “100 Jahre Republik: Die neuen Habsburger”. トレンド (雑誌) 2019年3月3日閲覧。
- ^ a b Teresa Schaur-Wünsch (2014年7月18日). “Salzkammergut: Hochzeit in der Kaiservilla”. Die Presse 2020年2月1日閲覧。
- ^ Ann Kathrin Hermes (2019年3月20日). “"Bei Kaiser Franz Joseph hat der Narr gefehlt"”. news.at 2020年2月1日閲覧。
- ^ ““The 21st-century Habsburg mission”. The Catholic Herald. (2016年11月16日) 2018年11月6日閲覧。
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=WGP8M7qH0vk&feature=youtu.be
- ^ Thomas Wehrli (2014年6月30日). “Kaiser ist kein erstrebenswerter Beruf”. バーゼル新聞 2019年10月5日閲覧。
- ^ a b c Boris Kálnoky (2016年12月30日). “Ungarn pflegt habsburgisches Erbe pompöser als Österreich”. ディ・ヴェルト 2019年10月5日閲覧。
- ^ “A Várba költöztetik Habsburg Ottó hagyatékát”. Index.hu. (2019年8月7日) 2019年10月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社現代新書、2017年8月。ISBN 978-4-06-288442-6。