サム・スピーゲル
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サム・スピーゲル Sam Spiegel | |||||||||||||
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本名 | Samuel P. Spiegel | ||||||||||||
別名義 | S.P. Eagle | ||||||||||||
生年月日 | 1901年11月11日 | ||||||||||||
没年月日 | 1985年12月31日(84歳没) | ||||||||||||
出生地 |
オーストリア=ハンガリー帝国ガリツィア・ロドメリア王国 (現・ポーランド・ポトカルパチェ県)ヤロスワフ | ||||||||||||
死没地 | チャンネル諸島ガーンジーセイント・マーティン | ||||||||||||
職業 | 映画プロデューサー | ||||||||||||
活動期間 | 1932年 - 1983年 | ||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||
『波止場』(1954年) 『戦場にかける橋』(1957年) 『アラビアのロレンス』(1962年) | |||||||||||||
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サム・スピーゲル(Samuel P. Spiegel 1901年11月11日 - 1985年12月31日)は、アメリカ合衆国の映画プロデューサー。1940年代から1950年代始めまでは“S・P・イーグル”(S.P. Eagle)名義[1]でクレジットしていた。
来歴
[編集]旧・オーストリア=ハンガリー帝国内ガリツィア・ロドメリア王国(現・ポーランド・ポトカルパチェ県)ヤロスワフ生まれ。ユダヤ人で、父はタバコの卸売人をしていた[2]。
ウィーン大学卒業。1927年、ハリウッドに仕事を得て渡米。その後ベルリンに渡り、ユニバーサル・ピクチャーズ映画のフランス・ドイツへの配給を担当するが、1933年にナチス政権が誕生するとドイツを離れ、メキシコを経て、再びアメリカに渡った。1950年代から、『波止場』、『戦場にかける橋』、『アラビアのロレンス』などの名作のプロデュースを手掛けた事で有名となる。
ヘブライ語、ポーランド語、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語の7か国語に堪能であった[3]。
1996年、エルサレム映画・テレビ学校が、彼の名に因んで「サム・スピーゲル映画・テレビ学校」と改名された。
主な作品
[編集]- キートンのスペイン嬌乱 The Invader (1936)
- 運命の饗宴 Tales of Manhattan (1942)
- オーソン・ウェルズ IN ストレンジャー The Stranger (1946) 劇場未公開
- ストレンジャーズ6 We Were Strangers (1949)
- 不審者 The Prowler (1951) 劇場未公開
- アフリカの女王 The African Queen (1951)
- メルバ Melba (1953)
- 波止場 On the Waterfront (1954)
- 戦場にかける橋 The Bridge on the River Kwai (1957)
- 去年の夏 突然に Suddenly, Last Summer (1959)
- アラビアのロレンス Lawrence of Arabia (1962)
- 逃亡地帯 The Chase (1966)
- 将軍たちの夜 The Night of the Generals (1967)
- 真昼の衝動 The Happening (1967)
- ニコライとアレクサンドラ Nicholas and Alexandra (1971)
- ラスト・タイクーン The Last Tycoon (1976)
受賞
[編集]- ゴールデングローブ賞 作品賞 (ドラマ部門)(第12回『波止場』、第20回『アラビアのロレンス』)
- アービング・G・タルバーグ賞(第36回『アラビアのロレンス』)
脚注
[編集]- ^ 自分の名字の読み方の英語表記から。
- ^ The Scribner Encyclopedia of American Lives - Kenneth T. Jackson - Google Books
- ^ Sam Spiegel appearance on What's My Line?, episode 818. Originally aired January 30, 1966 on CBS. Viewed on October 3, 2007.