コンテンツにスキップ

オレーク・アントロポフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オレーク・アントロポフ
Олег АНТРОПОВ
基本情報
国籍  ラトビア[1]
カザフスタンの旗 カザフスタン[2]
生年月日 (1947-11-05) 1947年11月5日
出身地 ソビエト連邦の旗 シムケント
没年月日 (2023-10-15) 2023年10月15日(75歳没)
ラテン文字 Oleg ANTROPOV
ロシア語表記 Олег АНТРОПОВ
獲得メダル
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
オリンピック
1968 男子バレーボール
テンプレートを表示

オレーク・ペトローヴィチ・アントロポフロシア語: Олег Петрович Антроповロシア語ラテン翻字: Oleg Petrovich Antropovラトビア語: Oļegs Antropovs1947年11月5日 - 2023年10月15日)は、ソビエト連邦出身の元バレーボール選手・指導者。FIVB公認インストラクター。内科医でもある。元ソビエト連邦代表

来歴

[編集]

カザフ・ソビエト社会主義共和国シムケント出身。

1965年、アルマ・アタ(アルマトイ)のブレヴェストニク・アルマ・アタロシア語版に入団。欧州チャンピオンカップ(現欧州チャンピオンズリーグ)1969/70および1970/71シーズン連覇、ソ連トップリーグ(現ロシアスーパーリーグ)で1969シーズン優勝に貢献した。

1972年、リガラジオテクニカ・リガロシア語版に入団。ゲンナジー・パルシン監督のもと、ヨーロッパ・ウィナーズカップ英語版連覇を含む優勝3回(1973/74・1974/75・1976/77)、ソ連トップリーグで2位が3回に貢献した。また在籍中、1972年からリガ医科大学ラトビア語版に入学し1979年卒業、内科医の資格を修得した。

一方代表では、ジュニア時代からナショナルチームに招集されている。1966年、欧州ジュニア選手権優勝。1968年メキシコシティ五輪金メダル、1973年夏季ユニバーシアード優勝、1974年世界選手権2位。

現役引退後の1979年、パルシン率いるラジオテクニカでコーチを始める。同時期にラトビア体育大学ラトビア語版に入学し1984年卒業。1988年からソ連ジュニア男子代表監督に就任。1988年欧州ジュニア選手権優勝、1989年世界ジュニア選手権優勝[3]を果たす。

1990年からカタールジュニア男子代表監督、1993年からラトビアオゾルニェキポーランド語版男子監督として活躍。1995年からクロアチアザグレブムラドスト・ザグレブ男子監督に就任。同シーズンにはクロアチアリーグおよびカップ二冠。翌シーズン欧州チャンピオンズリーグ3位、クロアチアリーグおよびカップ二冠。

1997年、ロシア男子代表監督に就任[2]

1998年からスロバキアブラチスラヴァVKPブラチスラヴァスロバキア語版男子監督、在任中スロバキア選手権二連覇。

1999年パルシンと共に来日、VリーグJTサンダーズコーチに就任。2006年、パルシン勇退を機にJTサンダーズ監督に昇格[2]。翌2007年リーグ開幕直前に体調不良により帰国、その間栗生澤淳一が代行を務めた[4]。シーズン終了後勇退。[5]

2023年10月15日に死去。75歳没[6]

所属チーム

[編集]

選手

指導者

脚注

[編集]
  1. ^ JT公式(Internet Archive) (2006年5月4日). “チームトピックス”. 2010年9月16日閲覧。
  2. ^ a b c 中国新聞 (2006年7月14日). “JT新監督にアントロポフ氏 Vリーグ”. 2010年9月10日閲覧。
  3. ^ ちなみに、日本が2位になっている。(荻野正二インタビュー、サントリーサンバーズ公式. “現役18年間を振り返り”. 2009年8月19日閲覧。
  4. ^ 全日本選手権レポート (PDF) (08年1月6日付日本バレーボール協会公式)
  5. ^ 中国新聞 (2008年5月20日). “JT新監督にメイフォース氏”. 2009年8月19日閲覧。[リンク切れ]
  6. ^ Mūžībā devies olimpiskais čempions, bijušais Rīgas "Radiotehniķa" volejbolists Oļegs Antropovs” (ラトビア語). Jauns.lv (2023年10月15日). 2023年10月15日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]