叡南覚照
叡南 覚照(えなみ かくしょう、1927年 - 2018年)は、日本の天台宗の僧侶で千日回峰行大行満大阿闍梨、赤山禅院住職、大僧正。「赤山の御前さま」と呼ばれた。
略歴
1927年生まれ。俗名は木村和男。1940年、13歳の時、叡南覚誠に就いて出家。その弟子の叡南祖賢に師事。小僧頭として弟弟子たちの面倒を見た。
1960年(昭和35年)、33歳のときに千日回峰行を満行。戦後4人目の大行満大阿闍梨となる。
「運は自分でつかむものであり、そのためには努力をすることと笑顔が大切だ。人が集まる場所に笑顔が生まれる」と教え、政財界人だけでなく、多くの若者が相談に訪れた。
安部龍太郎に京都暮らしを勧め、「正しい修行をすれば、将来が分かる」と指導した[1]。
隆慶一郎が『風の呪殺陣』で千日回峰行の達成を目指す主人公が焼き討ちを始めた織田信長を呪い殺すための修行を始めた小説を書いた時、事前に赤山禅院で取材に協力したが、完成した小説を読んで、「仏教が人を殺すかと」と一喝した[2]。
師匠の叡南祖賢が入院中の京都府立医大病院で危篤に陥った時は、「これからわしの判断で親父を坂本まで連れて帰る。坊さまは寺で亡くなるのが本当や。大和尚を病院で死なすわけにいかない。しかも親父は行者だ。途中で容態が急変することは絶対ない。」と断言し、寝台車で20キロ離れた自坊の慈門庵へ連れて帰り、祖賢和尚は自坊で遷化した[3]
弟子の叡南俊照師が千日日回峰行中に腹痛のため、途中で休んでいた俊照を一喝したが、6時間かかるところを20時間かかって廻り戻ってきた姿を確認すると、声もかけずにそっと中に入る。師匠の気持ちが通じた俊照師は涙がとまらないまま山を歩いた[4]。
弟子には「人間に資質というものがある。百点満点で五十点を取れる人間なら、行をすれば五十一点を取れるかもしれないし、八十点を取れるかもしれない。しかし絶対に四十九点を取ることはない」と口癖のように言っていた [5]。
2018年4月9日、急性心不全のため示寂[6]。
弟子
比叡山律院・赤山禅院住職。千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正
比叡山最乗院住職、大僧正。十二年籠山行を満行
善光寺大勧進第104世貫主、大僧正
伊崎寺住職、千日回峰行大行満大阿闍梨
脚注
- ^ [https://www.sankei.com/article/20201210-MTXYCM43ORK2VPGDMLB3S5V3DE/?outputType=amp【話の肖像画】作家・安部龍太郎(65)(19)住んで分かる京都の奥深さ 産経新聞、 2020年12月10日]と指導した
- ^ 『小説新潮』平成元年10月臨時増刊
- ^ 山田恭久編『戦後初の北嶺千日回峰行者 叡南祖賢大阿闍梨 叡南覺範・村上光田・藤光賢・堀澤祖門が語る比叡山の傑僧』156頁・170頁、善本社、2023年
- ^ 『北嶺のひと 比叡山・千日回峰行者内海俊照』56頁
- ^ 『北嶺のひと 比叡山・千日回峰行者内海俊照』40頁
- ^ 「訃報 叡南覚照さん91歳=天台宗大僧正」-毎日新聞2018年4月10日
外部リンク
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