饒宗頤
人物情報 | |
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生誕 |
1917年8月9日 中華民国広東省潮循道潮安県 |
死没 |
2018年2月6日 (100歳没) 香港 |
学問 | |
研究分野 | 東洋学 |
研究機関 | 香港大学 |
饒宗頤 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 饒宗頤 |
簡体字: | 饶宗颐 |
拼音: | Ráo Zōngyí |
和名表記: | じょう そうい |
発音転記: | ラオ ゾンイー |
饒 宗頤(じょう そうい、1917年8月9日 - 2018年2月6日)は、中国・香港の学者、詩人、書道家、画家。
研究分野は、考古学、文学、言語学、儒学、仏教学、敦煌学、音楽、歴史など人文科学の多岐にわたる。その業績から「国学大師」[1]、「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも評される[2]。香港中文大学の終身主任教授。中華人民共和国国務院の国家古籍整理委員会顧問。
経歴
[編集]父親の饒鍔は上海法政学院(zh)に学んだ人で、潮州の新聞『粤南報』の編集長であった。少年時代から学問の道を志し、18歳の時に著した論文『広東潮州旧志考』が専門家の目に止まり、歴史雑誌『禹貢半月刊』に掲載された。父親が早世したため、その研究成果など遺品を整理するために大学への進学を断念した。
19歳の時に中山大学から招請を受け、広東通志館で責任者となった。1939年8月、中山大学から研究員にと招請を受けるも、香港経由で移動する際に病気になり、治癒した後も香港に留まる。1940年、24歳で『楚辞地理考』を完成させる。1941年、香港への日本軍進攻のため、掲陽に疎開。
新中国の成立が宣言された1949年、『潮州志』を出版するために香港へと向かう。そのまま移住することになった。その後、中華人民共和国無錫市の無錫国専(zh)の教授のほか、香港大学、シンガポール大学など数々の大学で研究を重ね、香港中文大学の終身主任教授。同大学名誉教授。米国のエール大学、フランス国立社会科学高等研究院、フランスのソルボンヌ大学、日本の京都大学の客員教授などを歴任した。
2000年、文豪の金庸らとともに香港政府から「大紫荊勲章」を受章[3]。フランス学士院の碑文・文芸アカデミーから、世界的に優れた東洋学者に贈られるジュリアン賞を受賞。
生涯を通じて、80以上の著書、500編以上の学術論文を著した。その業績を称えて、潮州市と香港に「饒宗頤学術館」が建てられている[5]。
日本との関係
[編集]初めて訪問した外国が日本(1954年)。そのこともあって、日本人の学者、著名人との交流も多い。書家の西川寧、青山杉雨、中国文学者の吉川幸次郎らとの交友が知られる。
2007年10月には神戸で「長流不息-饒宗頤展」が開催された(神戸新聞社など後援)。山水画や蓮華図など、墨画や仏画、書など約200点が展示された[6]。
著書
[編集]著書(日本語訳)
[編集]脚注
[編集]- ^ “「饒宗頤的故事」展覽向國學大師致敬(附圖)”. www.info.gov.hk. 2020年9月4日閲覧。
- ^ 「神戸新聞」(2007年10月3日号)
- ^ 大紫荊(だいジーケン)は別名「香港ラン」といわれる花。同章は、香港における最高位の勲章。同章受章者には、実業家の李嘉誠(1997年)、香港政務長官を務めた陳方安生(1999年)らがいる。
- ^ “中國國學大師饒宗頤在港逝世 享嵩壽100歲” (中文). 蘋果日報. (2018年2月6日) 2018年2月9日閲覧。
- ^ 香港の学術館は香港大学のキャンパス内にある。饒宗頤が個人で収集した蔵書3万冊などが学生のために公開されている。
- ^ 「神戸新聞」(2007年9月27日号)