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テディ (競走馬)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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テディ
欧字表記 Teddy
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1913年
死没 1936年
アジャックス
ロンド
生国 フランスの旗 フランス
生産者 エドモン・ブラン
馬主 ジェファースン・デイヴィス・コーン
調教師 ロバート・デンマン(スペインフランス
競走成績
生涯成績 8戦6勝
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テディ (Teddy) は第一次世界大戦のさなかスペインフランスで走ったフランスの競走馬種牡馬としてフランス、アメリカ合衆国で数多くの名種牡馬の父となった。

血統

血統表

テディ血統オーム系 / Bend Or5×3=15.62% Galopin4.5×5=12.50%) (血統表の出典)

Ajax
1901
父の父
Flying Fox
1896 鹿毛
Orme Ormonde
Angelica
Vampire Galopin
Irony
父の母
Amie
1893 栗毛
Clamart Saumur
Princess Catherine
Alice Wellingtonia
Asta

Rondeau
1900 鹿毛
Bay Ronald
1893
Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Black Duchess Galliard
Black Corrie
母の母
Doremi
1894 栗毛
Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Lady Emily Macaroni
May Queen F-No.2-n

血統

父アジャックスはフランスの名馬だったが、早死にしたことと、第一次世界大戦でフランス国内の競馬が壊滅したことで、フランス国内での種牡馬として大きな影響を残したというわけではない[1]。母ロンドはイギリスハンデ戦で活躍していたが、死産・不受胎が多く生涯に6頭しか仔馬を残さず、しかも勝ち上がったのはテディのみだった[2]

来歴

0歳時(1913年)

1913年、フランスのジャルディイ牧場(en:Haras de Jardy)で生産された。ジャルディイ牧場はフランス競馬史上有数の生産者、エドモン・ブラン(Edmon Blanc)の経営する牧場である[3]

エドモン・ブランはモンテカルロバーデン=バーデンカジノを経営する実力者であり、競馬分野でも生産者・馬主として知られていた。テディの父馬であるアジャックスはエドモン・ブランの生産・所有馬で、その父であるフライングフォックスはエドモン・ブランがイギリスから買ってきた種牡馬である[4]。テディが生まれた1913年にも、エドモン・ブランはフライングフォックス産駒のダゴール(Dagor)でプール・デッセ・デ・プーランに勝ち、馬主としてこのレース8度目の優勝を手に入れた[5]

1歳時(1914年)

テディも順調であればエドモン・ブランの下で走るはずであった[6]が、テディが1歳になった1914年の夏に第一次世界大戦が勃発した。ドイツ軍に攻めこまれたフランスでは競馬を開催することがほとんど不可能になった。パリのロンシャン競馬場は救急車の待機場所になり、近郊のオートゥイユ競馬場には牛が収容されることになった。シャンティイメゾンラフィットでも多くの競走馬が疎開した。フランス軍は何千頭もの軍馬を徴用しようとしたが、生産者や馬主はこれを嫌ってたくさんの馬を国外へ売り払ってしまった[7]

2歳時(1915年)

エドモン・ブランも同様で、2歳になったテディを5400フランという安値で売ってしまった。当時のレートで210ポンドという安値であった[8][9]

購入したのは、イギリスのマイケルハム男爵(en:Baron Michelham)の秘書で、ジェファースン・デイヴィス・コーン(Jefferson Davis Cohn)という、いかがわしいアメリカ人だった。事実かは怪しいが、コーンは、アメリカ南北戦争時のアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスから名をもらったとされている。コーンは様々な事業に手を出していたが、競馬に関しては、テディとプラッキーリージ(Plucky Liege) を手に入れたことで、後世に多大な影響力をもつことになった。コーンは西ノルマンディーにあるボワルセル牧場を20年契約で借り受け、テディをここに連れて行った[10][11]

3歳時(1916年)

テディは、エドモン・ブラン氏の調教師であるロバート・デンマンによって管理された。


競走馬時代

テディがデビューしたのは3歳馬限定のサン・セバスチャン大賞だった(この年はフランスダービーの代替ともみなされていた)。2番人気に推されたテディは直線追い込んで初勝利を飾り、さらに続くサン・セバスチャンセントレジャーも楽勝した。しかしコパ・デ・オロ・デ・サンセバスチャンではさすがに疲労が出たのか3着に敗北した。同年秋にはフランス中部で競馬が小規模ながら再開されたためこのレースを最後に切り上げ、フランスに戻った。

フランスに戻ってからもダルネイ賞(代替リュパン賞)、トロワアン賞(代替ジョッケクルブ賞)に勝ち、サブロニエール賞でもリュパン賞馬ラファリナを破るなど能力を見せた。

  • 1915年
    • スペイン(3戦2勝) - サン・セバスチャン大賞、サン・セバスチャンセントレジャー
    • フランス(4戦3勝) - ダルネイ賞、トロワアン賞
  • 1916年
    • フランス(1戦1勝) - サブロニエール賞

その後

しばらく休養の後、5歳時の1918年から、コーンのボワルセル牧場で種牡馬として供用された。1923年には3世代目の産駒サーギャラハッドプール・デッセ・デ・プーランジャック・ル・マロワ賞に優勝、テディはフランスのリーディングサイアーになった。その後しばらくは活躍馬が出なかったが、高齢になってローズオブイングランドオルテッロが活躍。またサーギャラハッドとブルドッグが、アメリカ合衆国でリーディングサイアーになるなど種牡馬として成功し、テディの子孫は大きく発展していくことになる。しかしテディ自身は、1931年にコーンが世界恐慌に巻きこまれ破産したため、不遇の晩年を送った。アメリカに売却後成功できず、1936年、23歳の時にヴァージニア州の片田舎で死亡したという。死因は腸捻転であった。

その後も父方子孫は発展を続け、1948年にはサイテーションアメリカクラシック三冠を達成、1950年代に入るとアメリカでは全ステークスウィナーの2割にまで達した。しかし代表的な競走馬が相次いで種牡馬として失敗したこと、同じベンドア系でもオーモンドではなくボナヴィスタの系統の方が拡大したこともあり、現在の勢力は小さくなっている。だが、なお母系に入っての影響力は強く、テディの五重クロスを持つアファームドを筆頭に、ニジンスキーザミンストレルノーザンテーストストームバードダンジグレイズアネイティヴサンデーサイレンス等がテディ系種牡馬を母の父に持っている。

サラブレッド以外の子孫としては、タレント馬として活躍するドックスキーピンタイムが代表的。

代表産駒

ステークス勝ち馬は65頭


出典・参考文献

  • Teddy (Thoroughbred Heritage)
  • 日本中央競馬会編『サラブレッド世界百名馬』中央競馬ピーアール・センター、1978年
  • ギイ・チボー・著『フランス競馬百年史』真田昌彦・訳、競馬国際交流協会・刊、2004
  • 山野浩一『伝説の名馬(Part4)』中央競馬ピーアール・センター、1997年 ISBN 4924426555
  • 日本中央競馬会編『競馬百科』みんと、1976年。

脚注

  1. ^ 初年度産駒からはディアヌ賞のユニオン(Union)、バーデン大賞のアザリー(Azalee)、モルニー賞を勝ったメアリ(Mehari)などが出た。ほかにはサブロン賞を勝ったセルダ(Cerda)、マンチェスター・カップを勝ったマラヤクス(Marajax)、スペインのグラン・クリテリウム・ド・サンセバスチャンを勝ったグッドラック(Good Luck)など。
  2. ^ サラブレッド・ヘリテイジ テディ2013年3月1日閲覧。
  3. ^ 『サラブレッド世界百名馬』p67
  4. ^ 『世界百名馬』p67
  5. ^ 『フランス競馬百年史』p46
  6. ^ 『サラブレッド世界百名馬』p67
  7. ^ 『フランス競馬百年史』p52
  8. ^ 『伝説の名馬PartIV』p55
  9. ^ 『サラブレッド世界百名馬』p67
  10. ^ サラブレッド・ヘリテイジ プラッキーリージュ2013年3月1日閲覧。
  11. ^ サラブレッド・ヘリテイジ テディ2013年3月1日閲覧。

外部リンク