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小林悟

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こばやし さとる
小林 悟
別名義 新倉 直人
松本 千之
左 次郎 など
生年月日 (1930-08-01) 1930年8月1日
没年月日 (2001-11-15) 2001年11月15日(71歳没)
出生地 日本の旗 日本 長野県東筑摩郡本郷村(現・松本市
死没地 日本の旗 日本
職業 映画監督脚本家
ジャンル 映画
オリジナルビデオ
活動期間 1954年 - 2001年
活動内容 1954年 近江プロダクション入社
1959年 監督デビュー
主な作品
映画
狂った欲望
肉体の市場
鏡の中の野心
オリジナルビデオ
ブラインドキャット
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小林 悟(こばやし さとる、1930年8月1日 - 2001年11月15日)は、日本の映画監督脚本家である。ピンク映画の創世記からメガホンを取り続け、実に450本以上もの作品を残した。日本における、35ミリフィルムを使った劇場映画の監督本数としては史上最多であり、海外でもこれを超える記録は確認されていない。

略歴

長野県東筑摩郡本郷村(現・松本市)の浅間温泉に生まれる。長野県松本深志高等学校を卒業し、早稲田大学文学部に進学した。在学中は舞踏美学を専攻[1]。一方で映画にも興味を持っており、映画製作の現場でアルバイトを続けていた。1954年(昭和29年)、新東宝小森白監督作品『娘ごころは恥づかしうれし』において、ロケーション選定に協力した事から助監督に抜擢されて本格的に映画製作に関わるようになる。同年、大学を卒業後、近江プロダクションに入社。歌手・音楽家であり映画監督でもあった近江俊郎に師事し、高島忠夫主演の『坊ちゃん』シリーズなどの助監督を務める。やがて新東宝に移った後、1959年(昭和34年)、菅原文太主演の『狂った欲望』で監督デビュー。

1961年(昭和36年)、新東宝が倒産した後、大蔵映画に参加。翌1962年(昭和37年)には、『肉体の市場』を発表。同作品は猥褻容疑で警視庁に摘発されたが、逆に作品はヒット。ピンク映画というジャンルが本格的に製作されるきっかけとなった。

その後、性描写が過激化しつつあったピンク映画に嫌気が差し、1968年(昭和43年)頃からアメリカ中華民国台湾)、欧州に渡った。アメリカでは新東宝時代の伝手によってハリウッドテレビ映画を監督した。また、ニューヨークセントラル・パークに滞在していたころには、地元の映画館経営者の奨めで当時隆盛しつつあったアメリカのポルノ映画の監督も行なった。その後、台湾では現地語による監督作品をいくつか残すも1970年(昭和45年)ごろに帰国。[2]

帰国直後に、同じくピンク映画監督である西原儀一が体調を崩したため、彼の経営する葵映画(新東宝映画系)で作品を発表した[3]。その後は実家の温泉旅館を手伝うなど半ば引退状態にあったが(この時期の動向は諸説あり)、1971年(昭和46年)頃から松竹系のピンク映画会社・東活にて監督に本格復帰(後に離脱)。同年には東活が製作した一般映画『鏡の中の野心』(出演:荒木一郎、堤(筒美)杏子(ひし美ゆり子)他)を監督しており、同作品は仲木睦監督作品『罠にはまった男』(出演:牟田悌三)と共に松竹にて配給された。以降は東活においてピンク映画の監督として多年に渡り数多くの作品を量産していった。東活においては1970年代から1980年代にかけて、名義を使い分けてフル稼働。うちかなりの期間において3本立てを3つの名義で全部監督、年間30~40本を一人でこなすという状態が続いた。

80年代には古巣の大蔵映画に復帰し、ゲイ・ポルノを含めて多数の作品を発表した。また、日活ロマンポルノ消滅後に登場したエクセス・フィルムでも作品を発表した。

1999年(平成11年)公開の『地獄』(石井輝男監督作品)では製作総指揮を手がけるなど活躍していた矢先の2001年(平成13年)11月15日、膀胱癌により没す。満71歳没。

作品

監督

※代表的な作品

製作総指揮

備考

  • ピンク映画のベテラン監督である小川欽也は大蔵時代、小林悟の助監督を務めていた。
  • 全盛期には「ポルノ映画界の黒澤明」と称されるほどの活躍を見せた。
  • 1970年代には高橋伴明が助監督を務めており、小林が監督昇進を推薦した[4]
  • 最後の時期には竹洞哲也が助監督を務めており、最後の作品である『川奈まり子 桜貝の甘い水』の現場にも立ち会った[5]。竹洞は小林の死後、大蔵映画から製作配給部門を継承したオーピー映画で小川欽也の推薦で監督デビューを果たしている。
  • これらの他に、北沢幸雄(飯島大)、国沢実堀禎一などが小林の助監督を務めていた事がある。
  • 東活時代は、脚本は主に池田正一(後の官能小説家の高竜也)が担当していた[6]
  • 東活作品においては、後にホラー映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に用いられ、アダルトビデオで広く多用されている「主観映像」を確立させた[7]
  • 低予算のピンク映画において、スポンサー共同製作者(アメリカの製作プロダクションと提携し、日本版と米国版を製作など)を確保したり、海外放浪していた頃の知己を活かしたりして、アメリカ西海岸やフィリピンタイなど海外ロケーションを多く行なった。また、各地のストリップ劇場とも提携して、作品にストリッパーを登場させる事もしばしばあった。
  • 助監督時代には石井輝男の自宅に居候していた事がある[8]

出典

  1. ^ 『P・G』(ピンク映画のミニコミ誌)No.91 「追悼・小林悟」内「小林悟ロング・インタビュー」、2002年、P.63
  2. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内「小林悟ロング・インタビュー」、2002年、PP.63-72
  3. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内「小林悟ロング・インタビュー」、2002年、P.68
  4. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内「小林悟ロング・インタビュー」、2002年、P.68
  5. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内追悼文集・小林悟カレイドスコープ「竹洞哲也」、2002年、PP.61-62
  6. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内「小林悟ロング・インタビュー」、2002年、P.68
  7. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内「小林悟ロング・インタビュー」、2002年、PP.68-69
  8. ^ 『P・G』No.91 「追悼・小林悟」内追悼文集・小林悟カレイドスコープ「石井輝男」、2002年、P.36