丹生都比売神社
丹生都比売神社 | |
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境内(正面に楼門:国の重要文化財) | |
所在地 | 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230 |
位置 | 北緯34度15分45.80秒 東経135度31分19.20秒 / 北緯34.2627222度 東経135.5220000度座標: 北緯34度15分45.80秒 東経135度31分19.20秒 / 北緯34.2627222度 東経135.5220000度 |
主祭神 |
丹生都比売大神 高野御子大神 大食津比売大神 市杵島比売大神 |
社格等 |
式内社(名神大) 紀伊国一宮 旧官幣大社 別表神社 |
本殿の様式 | 一間社春日造4棟 |
別名 | 天野大社 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番) |
例祭 | 10月16日 |
主な神事 | 御田祭(1月第3日曜日) |
地図 |
丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である[注 1]。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。
概要
和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。丹生都比売神社自体も高野山からの影響を強く受け、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残る。和歌山県・奈良県を主とした各地では、高野山の荘園に丹生都比売神社が勧請された関係で、丹生都比売神社の分霊を祀る神社の分布が知られる。
神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵[1]を始めとする文化財のほか、本殿[2]および楼門[3]などの社殿が国の重要文化財に指定されている。また境内は国の史跡に指定されている[4]。これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている[5][6]。
祭神
祭神は次の4柱[7]。これら4神は「四所明神」とも総称される。
- 第一殿:丹生都比売大神 (にうつひめのおおかみ)
- 通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。
- 第二殿:高野御子大神 (たかのみこのおおかみ)
- 通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。
- 第三殿:大食津比売大神 (おおげつひめのおおかみ)
- 第四殿:市杵島比売大神 (いちきしまひめのおおかみ)
祭神について
- 丹生都比売神
- 丹生都比売神の性格については大きく分けて2説がある[8]。
- 1つは水神とみるもので、その根拠として天野の地が紀の川の一水源地であること、空海が丹生都比売神社から譲り受けたという神領は有田川・貴志川・丹生川・鞆淵川の流域のほぼ全域を占めていたこと、関係する丹生川上神社は水神信仰であること、東大寺のお水取りで水を送る遠敷明神(おにゅうみょうじん;若狭彦神社)の存在、御田祭などの祭事における性格等が挙げられる[8]。
- もう1つは、「丹」すなわち朱砂(辰砂:朱色の硫化水銀)の採掘に携わる人々によって祀られたという説である[8]。後述の『播磨国風土記』逸文にも「赤土」の記載が見えるほか、全国にある「丹生」と名のつく土地・神社は、水銀の採掘に携わった氏族(丹生氏)と深い関係にあることが明らかとなっている[8][9]。これらに対する一説として、丹生一族が水銀採掘で一大勢力を築いたが、その枯渇に際して天野や三谷で帰農、丹生都比売神社も水神信仰に変化したとする説もある[8]。
- なお『丹生大明神告門』[注 3]では、丹生都比売神を伊佐奈支命・伊佐奈美命の子とする。また稚日女尊と同一神とする説もある。
- 高野御子神
- 高野御子神は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる[10]。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される[10]。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。
『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている[10]。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか[10]、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号蟻通神」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる[10]。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神[注 2]、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという[10]。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。
歴史
創建
創建の年代は不詳。
『播磨国風土記』逸文[原 1]には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される[10]。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(北緯34度13分26.90秒 東経135度43分38.91秒)に比定され[注 4]、丹生川の水源地にあたる[10]。また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく[10]、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある[8]。
一方『丹生大明神告門』[注 3]では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したと伝える[8]。
また『日本書紀』神功皇后紀[原 2]には、紀伊国の小竹宮[注 5]において天野祝と小竹祝を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は丹生都比売神社の神職と見られる[8]。
空海への土地譲り伝説
丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる[10]。高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある[8]。これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。以上の説話は『今昔物語集』[原 3]等にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身といわれる[10]。『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている[10]。
空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領となった[8]。丹生都比売神社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校で第4代執行の雅真の頃とされる[8]。
概史
国史での初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)[原 4]で、「丹生都比売神」に対して従四位下勲八等の神階が奉叙された。元慶7年(883年)[原 5]には従四位上勲八等に昇叙されている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では紀伊国伊都郡に「丹生都比女神社 名神大 月次新嘗」と記載されており、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭には朝廷から幣帛を受けていた。また『紀伊国神名帳』には天神として「正一位勲八等 丹生津比咩大神」の記載があり、同じく天神として「正一位 丹生高野御子神」の記載もある。
高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された[10]。この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004年)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183年)10月9日に見える[10]。また、高野山の火災では丹生都比売神社が仮所とされたほど重要視されていた[10]。
以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられた[10]。そのため境内にも仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている[10]。後世には、修験道の修行の拠点にもなった。
元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名なり、公家・武家から多くの寄進を受けた[10]。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている[11]。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した[11]。なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。
中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された[10]。近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された[10]。
明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において県社に列し、大正13年(1924年)に官幣大社に昇格した。また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立したが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われる。
神階
丹生都比売神
- 六国史時代における神階奉叙の記録
- 六国史以後
高野御子神
- 六国史以後
神職
丹生都比売神社の神職は、古来より天野祝(あまののほうり、丹生祝/丹生氏)が担う[10]。『丹生祝氏本系帳』によれば、丹生祝の祖は天魂命で、紀氏祖の神魂命の系統を引くという[10]。
境内
丹生都比売神社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている[4]。
本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社春日造の檜皮葺で、第一殿は江戸時代の正徳5年(1715年)、第二殿は室町時代の文明年間(1469年-1486年)、第三殿は明治34年(1901年)、第四殿は室町時代の文明元年(1469年)の造営である。各殿内とも鎌倉時代の一間春日見世棚造の宮殿を納めている。宮殿には嘉元4年(1306年)の銘があり、本殿前身の社殿と見られる。これら四殿は、附指定の宮殿を加えて「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定されている[2][12][13]。
楼門は室町時代、明応8年(1499年)の造営。13世紀末の作という「絹本著色弘法大師丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に描かれた境内図には、現在の楼門の位置に八脚門が描かれている。現在の形式は三間一戸の入母屋造で、檜皮葺。本殿同様、国の重要文化財に指定されている[3][14]。
境内東部には、鎌倉時代から室町時代に建てられた石造の五輪卒塔婆4基がある。高さは2.1メートルから3.6メートルあり、正応6年(1293年)、正安4年(1302年)、文保3年(1319年)、延元元年(1336年)の刻銘がある。修験行者の行事の模様をうかがわせるもので、和歌山県指定有形文化財に指定されている[13]。
境内背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並ぶ(北緯34度15分31.42秒 東経135度31分38.61秒)。高野山参拝前にはここから丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は弘仁10年(819年)5月3日に空海によって建立されたといい、当初は木造であったが慶安2年(1649年)5月に現在の石造で建てられたという[15]。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すとされる。いずれも国の史跡「高野山町石道」の一部に指定されている。
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大師堂跡、多宝塔跡
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卒塔婆群(和歌山県指定文化財)
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輪橋
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二つ鳥居
摂末社
いずれも境内社。
- 若宮
- 祭神:行勝上人
- 本殿4棟と同列左端に鎮座する。行勝上人は、丹生都比売神社の第三殿・第四殿を勧請した人物。
- 佐波神社 (さわじんじゃ)
- 明治時代に上天野地区の諸社を合祀。
-
佐波神社
祭事
年間祭事
丹生都比売神社で年間に行われる祭事は次の通り[16]。
- 歳旦祭 (1月1日)
- 元始祭 (1月3日)
- 厄除祭 (1月第3日曜)
- 御田祭 (1月第3日曜)
- 祈年祭 (2月17日)
- 花盛祭 (4月第3日曜)
- 大祓式 (6月30日)
- 神還祭 (7月18日)
- 例祭 (10月16日)
- 新嘗祭 (11月23日)
- 大祓式 (12月31日)
- 月次祭 (毎月16日)
御田祭
御田祭(おんだまつり)は、1月第3日曜に行なわれる農耕神事。平安時代に始まったとされ、形態の変遷を経て室町時代の祭祀の様子を伝えるという。神事では、豊穣を祈って舞が奉納したのち、数々の芸能を披露する。祭は和歌山県指定無形民俗文化財に指定されている[13]。
文化財
国宝
- 銀銅蛭巻太刀拵(ぎんどうひるまきたちこしらえ)(工芸品)
重要文化財(国指定)
- 本殿 4棟(附 宮殿4基)(建造物) - 室町時代後期から明治期。1965年(昭和40年)5月29日指定[2]。
- 楼門(建造物) - 室町時代中期。1908年(明治41年)4月23日指定[3]。
- 木造狛犬 2対(彫刻) - 鎌倉時代。1899年(明治32年)8月1日指定[18]。
- 木造狛犬 2対(彫刻) - 鎌倉時代。1899年(明治32年)8月1日指定[19]。
- 金銅琵琶(工芸品) - 鎌倉時代。1899年(明治32年)8月1日指定[20]。
- 木造鍍金装神輿 2基(工芸品) - 室町時代。1908年(明治41年)1月10日指定[21]。
- 兵庫鎖太刀(ひょうごぐさりたち) 2口(工芸品) - 鎌倉時代。1897年(明治30年)12月28日指定[22]。
- 鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんたち) 1口(工芸品) - 鎌倉時代。1899年(明治32年)8月1日指定[23]。
- 鍍金長覆輪太刀 2口(工芸品) - 鎌倉時代。1899年(明治32年)8月1日指定[24]。
- 紙本墨書法華経 8帖、紙本墨書後村上天皇宸翰寄進状 1巻(書跡・典籍) - 平安時代・南北朝時代。1926年(大正15年)4月19日指定[25][26]。
国の史跡
和歌山県指定文化財
- 有形文化財
- 無形民俗文化財
- 天野の御田祭 - 昭和56年7月13日指定[29]。
かつらぎ町指定文化財
- 有形文化財[30]
- 面類 6面(彫刻) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
- 大絵馬 6面(絵画) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
- 箏 1面(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
- 太鼓 1口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
- 太刀 2口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
- 太刀 2口(工芸品) - 2004年(平成16年)3月31日指定。
世界遺産
ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」(2004年7月登録)の資産「丹生都比売神社」は、以下3件の文化財を含む[5][6]。
- 重要文化財「丹生都比売神社本殿」
- 重要文化財「丹生都比売神社楼門」
- 史跡「丹生都比売神社境内」
現地情報
- 交通アクセス
脚注
注釈
- ^ 神社由緒書によれば、全国に社名を「丹生神社」とする神社は88社、丹生都比売神を祀る神社は108社(摂末社を入れると180社あまり)あり、丹生都比売神社はそれらの総本社という。
- ^ a b ただし氣比神宮の祭神は伊奢沙別命であり、大食津比売神は祀られていない。
- ^ a b 『丹生大明神告門』は丹生都比売神社に伝わる祝詞。「告門」は「のりと」と読む。『延喜式』収録の祝詞ではなく、平安時代以降伝来されたものになる。
- ^ 「筒香(つつが)」は「管川(つつかわ)」からの転訛とされる。
- ^ 「小竹宮」は御坊市の小竹八幡神社と伝えられる(“小竹八幡神社”. 和歌山県神社庁. 2013年10月22日閲覧。)。
原典
出典
- ^ a b “銀銅蛭巻太刀拵”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2010年1月19日閲覧。
- ^ a b c “国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2013年10月11日閲覧。
- ^ a b c “丹生都比売神社楼門”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2013年10月11日閲覧。
- ^ a b c “丹生都比売神社境内”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2013年10月11日閲覧。
- ^ a b 文化庁 (2006年9月26日). “条約上の資産種別と登録資産の国内法上の指定状況” (PDF). 文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会(第1回)議事次第. 文化庁. 2011年1月18日閲覧。
- ^ a b 世界遺産登録推進三県協議会(三重県・奈良県・和歌山県)、2005、『世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道』、世界遺産登録推進三県協議会、pp.39,75
- ^ 祭神はご祭神・ご神徳(公式サイト)による。
- ^ a b c d e f g h i j k 『日本の神々』丹生都比売神社項。
- ^ 「丹生氏」項(坂本 太郎・平野 邦雄(監修)、2010、『日本古代氏族人名辞典』普及版、吉川弘文館 ISBN 9784642014588、所収)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『和歌山県の地名』丹生都比売神社項。
- ^ a b 井上 寛司、2009、『日本中世国家と諸国一宮制』 〈中世史研究叢書16〉 ISBN 978-4-87294-545-4 p. 44
- ^ “丹生都比売神社本殿”. 和歌山県. 2013年10月12日閲覧。
- ^ a b c “和歌山文化財ガイド”. 和歌山県文化遺産活用活性化委員会. 2013年10月12日閲覧。。
- ^ “丹生都比売神社楼門”. 和歌山県. 2013年10月12日閲覧。
- ^ 現地説明板。
- ^ お祭りと年中行事(公式サイト)。
- ^ a b c d “神社の歴史と宝物 丹生都比売神社”. 丹生都比売神社. 2013年10月11日閲覧。
- ^ 木造狛犬 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 木造狛犬 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 金銅琵琶 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 木造鍍金装神輿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
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- ^ 鍍金長覆輪太刀 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
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- ^ 法華経 八帖 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
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- ^ “県指定文化財・有形文化財・建造物”. 和歌山県教育委員会. 2013年10月12日閲覧。
- ^ a b c “県指定文化財・有形文化財・美術工芸品”. 和歌山県教育委員会. 2013年10月11日閲覧。
- ^ “県指定文化財・民俗文化財”. 和歌山県教育委員会. 2013年10月11日閲覧。
- ^ “指定文化財一覧(町指定文化財)”. かつらぎ町. 2013年10月12日閲覧。
参考文献・サイト
- 神社由緒書
書籍
- 平凡社(編)、1983、「丹生都比売神社」、『和歌山県の地名』、平凡社〈日本歴史地名大系31〉 ISBN 458249031X
- 丸山顕徳、1986、「丹生都比売神社」、谷川健一(編)『伊勢・志摩・伊賀・紀伊』、白水社〈日本の神々 神社と聖地6〉 ISBN 4-560-02216-X
サイト
- “丹生都比女神社(紀伊国伊都郡)”. 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」. 2015年6月10日閲覧。
関連文献
- 丹生都比売神社史編纂委員会(編)、2009、『丹生都比売神社史』、丹生都比賣神社