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野村克則

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野村 克則のむら かつのり登録名:カツノリ1973年7月23日 - )は、東京都出身。平成期(1990年代後半-)のプロ野球選手。父は南海ホークスロッテオリオンズ西武ライオンズで活躍した野村克也、母はタレント野村沙知代。血液型は、B型。

来歴・人物

堀越高から明治大学へ進み、2年(1993年)秋の東京六大学野球首位打者慶応山下圭と同率)と打点王の二冠を獲得、ベストナインにも選ばれる。大学時代の背番号は父と同じ19だった。1995年のドラフト3位指名で父が監督だったヤクルトスワローズに捕手として入団。しかし、正捕手古田敦也の陰に隠れたため(それでも古田の控えとして1997年25試合、翌年の1998年も25試合に出場している)出場機会に恵まれることがなく、若松勉監督が就任した1999年には2軍暮らしに終わり、金銭トレードで2000年に父が監督をしていた阪神タイガースに移籍。初年度の2000年には43試合、さらに2001年には52試合出場し矢野輝弘に次ぐ控え捕手としての地位を固めつつあったが、2001年限りで父・克也が監督を辞任して以後はなかなか出場機会に恵まれなかった。

2004年、金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍し本名(※1)の野村克則として新たな活動の場を求めるもやはり1軍の出場機会が3試合に留まりわずか1年で戦力外通告を受ける。2005年、トライアウトで2打席連続ホームランを打ちこれが決定打となり東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。登録名をカツノリに戻した。

実父が監督をつとめる球団に入団したため、親の七光りなどと言われることもあるが、練習に対する熱心さと真面目さでは他に類をみない努力家である。また、前向きで明るい性格のため、阪神や同学年の選手の間でもムードメーカー的存在となっていた。そんな性格ゆえ戦力外通告を受けたときは阪神・巨人からブルペンキャッチャー・2軍バッテリーコーチといったポストの誘いを受けたが、それを断って現役にこだわりをみせる。

楽天時代

楽天での1年目は4月17日北海道日本ハムファイターズ戦でプロ初のクリーンアップとなる5番を打ったりもしたが、結局6試合の出場にとどまる。その年のオフに克也が楽天監督に就任し、三度克也と同じユニフォームを着ることになったが、今回はヤクルト・阪神の時と異なり、先に克則が入団し、後から克也が入ってくる形になった。

また、克也の息子らしく選手を見る目はなかなか持っているようで「(楽天を戦力外になった選手の中で)オヤジなら使える選手も何人かいるんじゃない?」と電話で克也に伝えたりもしている。それがきいたのか、楽天は一度は戦力外にした小倉恒投手を再雇用している。

2006年は、藤井彰人と併用でスタメンマスクをかぶっており、特に明治大学の後輩・エースの一場靖弘の登板時には先発マスクが固定されてきている。また、打撃面でも絶好調

(※1):ヤクルト、阪神では当初、父・克也が監督として在籍していたため紛らわしさを考えて登録名をファーストネームとしていたが、巨人では球団がファーストネームでの登録を認めていない為、やむを得ず本名で登録した。一時期、若松勉監督も本人の登録名を変更しようとしたことがある。

関連項目