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馬場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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馬場(ばば、ばんば)、

馬場には、以下のようなものがある。

  1. 軍馬を繋養する場所、騎馬修練所や馬の乗り継ぎのため設けられた場所。禅定道の起点も馬場(ばんば)と呼ばれる。近世城下町では武家地に馬場が存在し、城下に在住する武士が乗馬訓練などを行っていた。
  2. 上記から派生した地名や人名。
  3. 乗馬において、人馬が運動を行う場所。馬場馬術の略。
  4. 競馬場走路。実際に馬がレースのために走行する場所のこと。
  5. よい馬(良馬)の産地。

地名

埼玉県新座市馬場(ばば)、神奈川県横浜市鶴見区馬場一丁目~馬場七丁目(ばば) - 馬場 (横浜市)石川県白山市馬場、岡山県苫田郡鏡野町馬場馬場 (さいたま市) - さいたま市緑区などがある。

この他、秋田県にかほ市馬場、千葉県成田市馬場、新潟県三条市馬場、新潟県十日町市馬場、岐阜県瑞穂市馬場、三重県伊賀市馬場、京都府長岡京市馬場、大阪府貝塚市馬場、大阪府泉南市馬場、福島県喜多方市馬場、兵庫県揖保郡太子町馬場、和歌山県和歌山市馬場、鳥取県鳥取市馬場、鳥取県岩美郡岩美町馬場、鳥取県西伯郡南部町馬場、徳島県阿波市馬場、福岡県八女市馬場、福岡県行橋市馬場、福岡県豊前市馬場、福島県安達郡本宮町馬場、福岡県糸島郡志摩町馬場、福岡県京都郡苅田町馬場、熊本県下益城郡美里町馬場、熊本県球磨郡湯前町馬場、大分県大分市馬場、大分県別府市馬場、鹿児島県肝属郡錦江町馬場、埼玉県比企郡ときがわ町馬場、山梨県南都留郡道志村馬場、福島県耶麻郡猪苗代町馬場、愛知県稲沢市馬場、滋賀県大津市馬場、滋賀県彦根市馬場、福島県西白河郡矢吹町馬場、福島県田村郡三春町馬場、茨城県常総市馬場、栃木県さくら市馬場と、全国に渡る。

また、馬場町馬場村 - (曖昧さ回避) - 日本各地に存在した地名や、○○馬場と呼ばれる地名の略称などがある。

高田馬場東京都新宿区高田馬場(たかだのばば) - 高田馬場駅)は、寛永十三年にできて以来、馬術や弓術の練習場として明治までつづいたという江戸の馬場のうちでももっとも古く、大きくまた長くつづいたものの一つである。この馬場に松の樹を植えたのは、享保年間といわれ、雑司が谷鬼子母神に参拝する人びとにとって、途中の馬場での遊びは欠かせないものとなったといい、賭け的、大的、小弓の勝負、騎射その他の催物があった。東の馬場では「能、難子、謡、土佐、外記、放下の類、一々見もつくされぬ」芝原の賑わいであったという。 明治二年ごろ馬場の敷地は東西200間、南北25問、総坪5000坪(1.25ヘクタール)あったが、北側にあった八軒の茶屋に分割払い下げられ、畑にかわっていった。

駅名

馬術場

乗馬馬術の練習および馬術競技や競馬を行う場所を馬場というが、 もともとは古代の日本で兵の騎射会の会場を意味していた。馬場は朝廷の武徳殿の前にあり、端午の節会には天皇も騎射を観覧、武徳殿左右の近衛府、兵衛府にも調練のための馬場を設置していた。

江戸時代になると、江戸中に馬場は散在していて、周辺の武士たちの調練に使われてきた。同時期のヨーロッパなどでは早くもスポーツがさかえていて、一般の庶民もいろんな球技を楽しんでいた。ギリシアのむかしは別にしても、イギリスにはクリケット蹴球ボーリングのようなものは貴族から農民までどの階層の人たちにも普及し、そのための場所にも不足はなかった。村にはヴィレッジ・グリーンがあり、ロンドンにはムア・フィールドやスミス・フィールドがあった。一方日本では、スポーツにあたるものをみると、庶民にとってスポーツらしきものは相撲などで、武士がたしなみとして練習した馬術弓術もあったが、庶民は馬に乗ることを禁ぜられており、明治になるまで武士階級に独占されていた。弓術はその後一部庶民のものとなって、楊弓とか土弓といわれたが、盛り場の遊びとして存在したにすぎなかったという。

江戸では、郊外の高田馬場と市中にあった馬場は、その面積の大きさと景観の美しさからいっても、現在の運動公園にふさわしいものであった。江戸名所図絵には、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場と高田馬場の三つが描かれ、嘉永二年(1894年)の切絵図では15ヵ所みられるが、馬喰町馬場や高田馬場のように、江戸時代を通じて存続したものは極めて少なくて、大部分は火災後に新たにつくられたり、馬場だったところが、武家地となって消えたりもしている。

馬場の管理はまちまちで近くの町に預けるもの、町奉行らが直接管理するものなどがあった。幕末に町預りになっていたものは、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場、小石川馬場、小日向馬場、堀田原馬場、平河町馬場、それに湯島の桜馬場である。町預りについて、馬場のある町とまったく無関係な役所の者が管理するのとでは馬場に対する親しみが違っていたであろうといわれる。もちろん町が預った馬場で、町の子供が遊べないわけはなかった様子で、馬術の行なわれない馬場は、子供たちの格好の遊び場で、江戸名所図絵の馬喰町馬場には、子供が遊んでいるところが描かれている。

馬喰町馬場は、初音の馬場ともいわれ、関ヶ原の戦いのとき馬揃をしたところと伝えられ、明暦大火後に一筋の馬場になったという。江戸でもっとも古い馬場で、明治までつづいた。


采女ヶ原馬場は、享保九年(1724年)までは松平采女正定基の屋敷があったところで、焼失後、馬場とし、火除地も兼ねた。天明五年(1785年)まではもっと広かった。明治まで馬場として残っていたが、明治二年に町家となった。いまの築地の国立ガンセンターの北、采女橋のあたりにあった。采女ヶ原馬場は木挽町が管理していた。馬場の修復や清掃、行き倒れの人があったときの処置は、この町の役目とされた。そのかわり馬場の周辺に助成地を与えられ、講釈師、手踊、矢場、鳴物入見世物、菓子商などに貸していた。その貸料で馬場の手入れ、清掃人夫賃をまかなっていた。したがって采女ヶ原馬場は890坪あっても、実際馬場として使われたのは半分ぐらいで、他は両国広小路などとよく似たヨシズ張りの興行物でにぎわっていた。

競馬用語

競馬用語辞典(日本中央競馬会刊)によると、馬場とは競走馬が競走したり、調教をしたりする場所を指す用語をいい、この言葉は用途別、築造材料別、構造・形状別に分類しているとしている。

派生

桜の馬場

日本各地には「桜の馬場」という地の名称だけでも、各地にあり、名のルーツとしては、江戸期に各地の藩にあった馬場で、桜を多く馬場の堤に植えたのでその名がつけられた。 たとえば、 地名では 広島県福山市には桜馬場町と地名として残り、「徳山藩に過ぎたるもの三つ、藩主墓所と桜の馬場に・・」と謡われる。 ほか長崎県大村市長崎市南島原市有家町山川、 新潟県上越市大場毘沙門国分寺香川県高松市仏生山町宮崎県都城市高城町大井手、西都市妻、日南市、 鹿児島県霧島市隼人町真孝と伊佐郡菱刈町愛知県知立市山町、鳥取県鳥取市山口県周南市桜馬場通、徳島県小松島市中郷町、高知県高知市、 にある。

演目

人名

日本のの一つ(ばば、もしくはばんば)。⇒ 馬場氏。場は異体字で塲とも書く。

関連項目