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ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフ

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ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフ
Дми́трий Ильи́ч Улья́нов
ファイル:Могила Дмитрия Ульянова на Новодевичьем кладбище.jpg
モスクワにあるドミトリーの墓
生年月日 1874年8月16日
出生地 ロシア帝国
ウリヤノフスク州ウリヤノフスク市
没年月日 1943年7月16日(68歳)
死没地 ソヴィエト連邦
モスクワ州ゴールキ・レーニンスキエ
出身校 モスクワ大学医学部
前職 医学者
所属政党 ロシア社会民主労働党
ロシア共産党(ボリシェヴィキ派)
配偶者 アントニア・イヴァノヴァ

在任期間 1919年3月 - 1919年6月
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ドミトリー・イリイチ・ウリヤノフДми́трий Ильи́ч Улья́новDmitry Ilyich Ulyanov 1874年8月16日 - 1943年7月16日)はロシア出身の医師医学者

ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンこと、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフは実の兄(次兄)にあたる。家族からは「ディミカ」の愛称で呼ばれていた。

生涯

1874年8月16日、物理学者イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフの三男としてシンビルスク市(後にウリヤノフスク市へ改名)に生まれる。三人兄弟の末で、長兄アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフサンクトペテルブルク大学の学生で反王党派運動に参加していた。アレクサンドルが皇帝暗殺未遂事件への関与により処刑され、次兄ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ(レーニン)も反王党派運動に参加する。後にモスクワ大学医学部へ進んだドミトリーも運動に加わり、1897年に最初の逮捕を受けている。1900年にはイスクラ通信の編集員に抜擢された。

ウリヤノフ兄弟が「テロリストの兄弟」として内外から注目を集めると、シベリア流刑や亡命を行っていた次兄と同じく政府の厳しい監視下に置かれた。ロシアを一旦離れドミトリーエストニアタルトゥ大学で医学研究を続けつつ、次兄の運動に参加している人間を自らの診療所で治療する事で革命活動を継続した。1905年の第一革命時には次兄レーニンと共にロシア社会民主労働党第二回中央会議のメンバーとして活動した。次兄の腹心としてキエフ党支部で中央委員を務め、各地の党支部長を歴任した。

1915年第一次世界大戦時には帝国政府に軍医として招集され、野戦病院で負傷兵治療にあたりながら次兄と密かに連絡を取っていた。1916年、アントニア・イヴァノヴァと結婚して娘オリガ1922年-2011年)を儲ける(さらにドミトリーは愛人との間に非嫡出の男子を一人儲けている。他の兄弟姉妹達には子供がいなかったため、彼の子孫はウリヤノフ家唯一(レーニンとの血縁関係を現在に繋いでいる)の子孫である)。そして遂に二月革命十月革命が勃発して帝政が倒され、レーニン率いるボリシェヴィキ派が主導権を握るとクリミア半島に派遣され、第二次クリミア自治共和国を打倒してクリミア・ソヴィエト連邦社会主義共和国英語版書記長として黒海沿岸部を掌握した[1]。ロシア内戦ではクリミア・ソヴィエトが占領されてクリミア白軍が編成、その後も南ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国英語版、南クリミア義勇軍、クリミア・ソヴィエト自治区など同地の支配権は次々と変遷した。

1921年、モスクワに帰還すると党公共衛生委員長(Narkomzdrav)及び東方勤労者共産大学医学教授として政治界隈を退き、医療活動に専念した。次兄レーニン没後のスターリン台頭時にも第一線を退いていた事から粛清を免れ、1930年代に生き残っていたウリヤノフ家の兄弟姉妹(長姉アンナと長妹マリアの2人)と共に、次兄レーニンの回想録を執筆した。晩年に第16回ソ連共産党大会、第17回ソ連共産党大会で大会委員を務め、1943年7月16日に滞在先のゴールキ・レーニンスキエで父イリヤと次兄レーニン同様脳出血により死去した。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。レーニンの兄弟姉妹の中で最後まで生き残った人物である(なお、レーニンの兄弟姉妹の中で最も長命だったのはレーニンとドミトリーの姉にあたるアンナ(1935年、71歳で死去)である)。

家族

出典

  1. ^ Alan W. Fisher. The Crimean Tatars. Hoover Press, 1978. p. 128. ISBN 978-0817966621