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富岡無尽

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富岡無尽(とみおかむじん)は徳島県にあった金融機関。徳島銀行の前身である。

富岡無尽合資会社

創業1918年大正7年)3月3日。旧那賀郡の14名の資産家により「富岡無尽合資会社」として設立された。無尽業法による営業免許を受け、1919年(大正8年)7月から営業を開始した。

代表社員は富岡町の船越逸平無限責任社員には富岡町の樫野恒太郎、沢田伊間蔵、京野忠蔵、日高喜五郎、沢田唯蔵、大松谷直吉、田淵庫太郎、中島村の薩摩藤太郎、福井村の三間知賀、桑野町の湯浅信次郎、長生町の倉橋来、中野島村の米沢弘、見能林町の土居ハマエが就任した。

1927年昭和2年)、片岡直温大蔵大臣の1927年3月14日の衆議院予算委員会での「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」失言から全国の金融機関で取り付け騒ぎが発生。金融恐慌が発生した。4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれた。 その後、経済状況は安定しないまま、1929年(昭和4年)、アメリカでの株価暴落を発端に世界恐慌が起こった。 国内の株価や米価格が暴落し、企業の生産縮小や倒産が起き、失業者が増大し金融市場は再び混乱した。

この際、昭和2年と同様、役員であった樫野恒太郎が私財を投じ「奇跡的に存続」(『徳島市史・第三巻』)することができた。

富岡無尽株式会社

1931年(昭和6年)の無尽業法の第2次改正により、無尽会社株式会社に限定されることになった。その結果、従来の合資会社では営業が認められなくなり、1936年(昭和11年)5月24日に資本金10万円の「富岡無尽株式会社」に組織変更することになる。

設立時の株式の総数は2000株で、出資内容は樫野恒太郎、船越逸平、三間知賀がそれぞれ280株(3人がそれぞれ筆頭株主)、日高喜五郎、久米高祐、土居薫、倉橋来、沢田義衛がそれぞれ265株で、計8名が出資者であった。

なお株式会社設立時の役員は互選の結果、取締役社長に船越逸平(初代・第4代社長)、専務取締役に久米高祐、取締役に樫野恒太郎、三間知賀、土居薫、監査役に日高喜五郎、倉橋来、沢田義衛が就任した。

設立後3ヵ月後の、1936年(昭和11年)8月23日、早くも代表取締役の変更を行い、取締役社長に樫野恒太郎(1936年 - 1946年、第2代社長)、専務取締役に三間知賀(のち第3代社長)が就任した。

これは、資本増強のため、当時社長であった船越逸平が自己保有株の半分の140株の引き取りを樫野恒太郎に依頼したもので、同時に樫野へ社長就任を要請した。これにより樫野恒太郎は420株の筆頭株主となるとともに2代目社長に就任した。

1927年(昭和2年)と1929年(昭和4年)の金融恐慌時同様、1936年(昭和11年)9月の危機にも、樫野恒太郎は、樫野商店の株式15株を三和銀行に差し入れることで2万3,750円の資金を調達し、救済に充てた。

1937年(昭和12年)、日中戦争のため政府による金融機関の整理統合が始まり、翌1938年(昭和13年)の無尽業法の改正により、最低資本金が10万円に引き上げられ、払い込み額3万5千円以上が義務つけられた。そのため、全国に246社あった無尽会社のうち、116社が取り潰された。

徳島県の無尽会社は、当時全国でも下位クラスであり、その存続は極めて厳しいものであった。1936年(昭和11年)当時、徳島県内にあった無尽株式会社3社のうち、第一無尽株式会社は1940年(昭和15年)に解散し、商業無尽株式会社は1941年(昭和16年)に解散した。富岡無尽株式会社のみが残り、徳島相互銀行を経て、徳島銀行になって存続した。

戦時中の1943年(昭和18年)に大阪の資本家によって買収される寸前の窮地に陥ったが、当時、樫野恒太郎が統制会長を務めており、石炭車両などの業界や政府との折衝が重ねられ、最終的に、再び樫野による資金の投入の結果、買収は回避され、今日の徳島銀行が存続することとなった。

出典

  • 「徳島市史・第3巻」徳島市史編さん室編(1983年(昭和58年)発行)