靳雲鵬
靳 雲鵬(きん うんほう、簡体字:靳云鹏、繁体字:靳雲鵬、ピンイン:Jìn Yúnpéng、1877年 - 1951年)は、中国の清代末期から中華民国時代にかけての軍人、政治家。号は翼清。山東省済寧県の人。北京政府、安徽派の有力軍人で、段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭(他は徐樹錚・呉光新・傅良佐)とされ、後に国務総理も務めた。弟は、安徽派・直隷派の軍人である靳雲鶚。
事跡
天津武備学堂を卒業し、光緒28年(1902年)に北洋常備軍軍政司参謀処で提調として任用された。李経羲が雲貴総督に任命されると、靳雲鵬も雲南省に赴任し、新軍督練公所総参議に任命された。宣統3年(1911年)10月に武昌起義に呼応した昆明重九起義が勃発すると、靳は昆明から脱出し、逃走した。
民国1年(1912年)に中華民国が成立すると、靳雲鵬は山東省で北洋陸軍第5師師長に任命され、その後、陸軍部次長に遷った。民国2年(1913年)、山東都督に就任し、民国3年(1914年)には泰武将軍位を授与され、督理山東軍務となっている。民国4年(1915年)12月に袁世凱が皇帝に即位すると、靳は一等伯爵に封じられた。民国5年(1916年)、果威将軍に封じられている。
同年6月に袁世凱が死去すると、靳雲鵬は段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭と目され、安徽派の有力幹部となった。民国6年(1917年)、日本へ軍事視察に訪問し、帰国後は参戦軍督練に任命された。民国8年(1919年)、国務総理兼陸軍総長に任命されたが、同じく「四大金剛」の徐樹錚と対立し、病気と称して辞職した。この経緯もあって、民国9年(1920年)7月の安直戦争で安徽派が敗北した後も、靳は国務総理に再任された。
民国10年(1921年)辞職し、以後は天津のイギリス租界に移住して、経済活動に専念した。その後も、中国国民党や日本から政治舞台への復帰を勧められたが、実際には応じていない。晩年は仏門に入り、中華人民共和国建国後も天津に留まっている。
1951年、天津で死去。享年75。
参考文献
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