古墳時代
古墳時代(こふんじだい)とは日本の3世紀後半ないし4世紀初め頃から7世紀頃の時代を指す。約300年間ぐらい前方後円墳が造り続けられたとする長い時代である。前方後円墳の世紀ともいわれている。また、王権を得るためには手段を選ばず、有力候補が自分の兄弟や異母兄弟であろうとも、奸計・策略をめぐらして倒すなどの激しい王権争奪戦が繰り返された時代でもある。
時期区分
3世紀後半ないし4世紀初め頃から古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としている。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀のはじめごろ、東北地方では8世紀の末ごろでほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。
古墳
3世紀の後半には、畿内から瀬戸内海沿岸にかけて古墳が出現し、それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中した。埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られる。この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が現れた。
5世紀の初頭、大王陵クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から大坂平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れた。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、長持ち型石棺を納めるようになった。各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなった。
5世紀後半には、北部九州と畿内の古墳に横穴式石室が採用されるものが増えてきた。北部九州の大型古墳には、石人・石馬が建てられるものもあった。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れた。
5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が現れ、大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになった。南東九州地方や北部九州に地下式横穴墓がつくられ始め、また、装飾古墳が出現しだした。
6世紀の前半には、西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。
6世紀後半になり、北部九州で装飾古墳が盛行し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになった。西日本で群集墳が盛んに造られた。
7世紀の初め、関東・東北で横穴式石室を持つ古墳が盛んに造られた。少したって、畿内では前方後円墳が造られなくなり、天皇陵を含む大型古墳も方墳となり、関東では群集墳が盛んに造られた。
古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀後半頃、関東では8世紀はじめ頃、東北地方では8世紀末頃ほぼ終わる。
国内の状況
領土争いが続き、ムラの統廃合が進んで国となり、大和朝廷が最終的にその支配を確実にした。各地で前方後円墳と呼ばれる大規模な古墳も作られたのもこの頃であり、仏教もこの時代に伝来した。中国の史書に266年から倭国の関係記事が見えなかったが、約1世紀半もたって、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9)に中国の史書『晋書』安帝紀に、倭国が貢ぎ物を献じたことが記されている。421年(宋・永初2年)に中国の史書『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見える。この以後、珍・済・興・武とつづく。いわゆる「倭の五王」である。このうち、有名な上表文を送った武を雄略天皇に比定している。上表文には、先祖代々から苦労して日本国土を統一した事績が書かれている。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が分かる。「杖刀人(じょうとうじん)」「典曹人(てんそうじん)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかった。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘から「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には「部民(べみん)」制度の施行を知ることが出来る。6世紀初めには、大臣・大連や国造の制度できている。527年、筑紫国造・磐井の反乱が起こった。
雄略朝
雄略朝の統治組織は、内廷(ないてい)と外廷(がいてい)があり、内廷は家政的機関で、外廷は国家的機関であった。この雄略朝から国家の職務分担が構成的、系統的に整備されたことにより外廷組織の執政官である大臣と大連の制が成立したのである。はじめは、大臣平群臣真鳥、大連大伴連室屋、物部連目からであった。大臣は大和地方を勢力基盤とし、かつては大王家と比肩される地位にあった臣姓の有力豪族から選ばれた葛城臣・平群臣、次いで蘇我臣が任ぜられ、大連はもともと内廷的な職業組織の人的奉仕集団のトモから有力化した連姓豪族を代表する大伴連と物部連の二氏であった。
大連二氏は同じ軍事的な性格を帯びていた。大伴氏は来目部・靫負部・佐伯部を率い、部民の設定や力役の徴発を担当していた。物部氏は、武器の管理に関わり、貢納物の収取を担当していた。ウジの名にトモとモノをつけるのが、大連の二氏のヤマト王権における役割分掌を象徴的に表示されている。
倭軍、朝鮮半島へ
できごと
- 372年 百済の肖古王、倭国に七枝刀1口、七子鏡1面おくる。「泰和4年」(369年)の紀年銘を持つ奈良県天理市の石上神社の七支刀がこれにあたる。
- 391年 倭軍、百済・新羅を破り、臣民とする。(「高句麗広開土王碑」)
- 400年 高句麗、倭軍を撃退する。(「高句麗広開土王碑」)
- 413年 倭国、東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、東晋・義熙9)
- 414年 高句麗の公開土王(好太王)碑たつ。
- 421年 倭王賛、宋に朝献し、武帝から除綬の詔を受ける。(『宋書』倭国伝、宋・永初2)
関連項目
- 前近代中国史書での日本の記述
- 騎馬民族征服王朝説
- 弥生時代 - 古墳時代 - 飛鳥時代