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韓侂冑

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韓侂冑(かんたくちゅう、1152年 - 1207年)、字は節夫、河南安陽の人。南宋の官人として専権を振るった。祖父は北宋韓琦、母は高宗の呉皇后の妹である。

韓侂冑は父親の蔭位により出官し、孝宗末年には汝州防禦使、知閣門事に至っている。紹熙5年(1194年)、孝宗が崩御したが、光宗も病のため喪礼を執り行うことができないため、韓侂胄は皇族の趙汝愚と光宗の子である嘉王即位を協議、太皇太后の裁可を得て寧宗の即位が実現した。その後皇帝の信任を得た韓侂冑は爵位を加封され宋朝の朝政に13年にわたる専権を振るうこととなり、官位は宰相より更に高い平章軍国重事に至った。この専横に反対の意見を表明し官を辞した人物に朱熹がいるが、韓侂冑は士大夫間における朱熹の影響力を抑制するために朱熹の理学を偽学としこれを禁止した(慶元の党禁)。

政権を掌握した韓侂冑はに奪われていた中原地区奪還を計画し金討伐の準備を開始した。始めに金に対抗し和平派の工作により非業の死を遂げた岳飛の名誉回復を行い、寧宗の勅許を得て武穆を追諡し鄂王に封じた。また和平派の代表的な人物であった秦檜の王爵を除き、溢号を繆醜と改めている。開禧2年(1206年)、寧宗は金討伐の詔勅を下しここに開禧北伐と称される金攻撃が行われた。緒戦こそは微勝した宋軍であったが、次第に敗色が強くなり、逆に金軍の南下を招いた。ここに韓侂冑は金との和議を主張するが、金は韓侂胄の引渡しを要求、金への引渡しを拒否した韓侂冑は1207年史弥遠により殺害され、その首と引き換えに金との和議が成立した。