丁鉉
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丁 鉉(てい げん、生年不詳 - 正統14年8月15日(1449年9月1日))は、明代の官僚。字は用済。本貫は南昌府豊城県。
生涯
[編集]永楽13年(1415年)、進士に及第した。太常博士に任じられた。工部員外郎・刑部員外郎・吏部員外郎を歴任し、刑部郎中に進んだ。正統3年(1438年)、刑部右侍郎に抜擢された[1]。正統9年(1444年)、四川に出向して茶の課税を監理し、その常数を減らして、豊年を待つよう上奏した。江淮および山東・河南の飢饉に対して振恤をおこなった。正統14年(1449年)、オイラトのエセン・ハーンが侵攻してくると、丁鉉は英宗の親征に扈従して、土木の変により殺害された。刑部尚書の位を追贈された。諡は襄愍といった。
子の丁琥は大理寺評事となった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻167 列伝第55