土御門通持
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時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 貞永元年(1232年) |
死没 | 建治2年閏3月15日(1276年4月30日) |
官位 | 従二位、参議 |
主君 | 後堀河上皇 → 四条天皇 → 後嵯峨天皇 → 後深草天皇 → 亀山天皇 → 後宇多天皇 |
氏族 | 村上源氏中院流土御門家 |
父母 | 父:土御門通行、母:源師季の娘 |
子 | 通尚、通宣、実性、顕空、顕豪、実顕、信顕、道縁、定誉 |
土御門 通持(つちみかど みちもち)は鎌倉時代中期の公卿。参議、従二位。父は権大納言土御門通行、母は正三位侍従源師季の娘。子には共に参議に至った通尚と通宣の他、実性、顕空、顕豪、実顕、信顕、道縁、定誉がいる。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
仁治4年(1243年)2月5日、侍従に任ぜられる。寛元2年(1244年)1月5日、従五位上に昇叙。同年4圧5日、丹波守を兼ねる[1]。同年7月16日、丹波守を止める。寛元4年(1246年)1月5日、正五位下に昇叙。同年12月17日、右少将に任ぜられる。建長2年(1250年)2月13日、皇后宮権亮を兼ねる。同年9月16日、右中将に転任。権亮は元の如し。建長3年(1251年)1月5日、従四位上に昇叙[2]。同年3月27日、権亮を止める。建長6年(1254年)1月5日、正四位下に昇叙[3]。正嘉元年(1257年)6月22日、因幡守を兼ねる。正元元年(1259年)5月19日、因幡守を止める。同年4月17日、蔵人頭に補される[4]。同月29日、禁色を許される。
弘長元年(1261年)3月27日、参議に任ぜられる。同年9月26日、従三位に叙される。弘長2年(1262年)1月19日、加賀権守を兼ねる。弘長3年(1263年)1月6日、正三位に昇叙[5]。文永4年(1267年)2月1日、参議中将を辞職。文永8年(1271年)8月21日、本座を許される。同年10月13日、従二位に昇叙。建治2年(1276年)閏3月15日、卒[6]。享年45。