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[[1989年]]に同校を卒業し、[[日本サッカーリーグ]]1部の[[日産自動車サッカー部]](現[[横浜F・マリノス]])に加入。当初は日産の厚い選手層の中で出場機会を得られずにいたが、1990-91シーズンに[[ジョゼ・オスカー・ベルナルディ|オスカー]]監督の抜擢によりリーグデビュー<ref> [[ストライカー (雑誌)|ストライカー]] 1991年7月号 付録 オスカーのインテリジェントサッカー全科 p.3-10</ref>。縦への鋭い突破で、第8節の[[読売サッカークラブ]](現[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]])戦で初得点を決めると、その後も1990-91シーズン後期、[[1992年のJリーグカップ]]、[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]決勝延長戦での決勝ゴールなど<ref> [[サッカーマガジン]] 1993年2月21日号 no.409 p.5-10 [[ベースボールマガジン社]] </ref>、読売クラブや後継の東京V戦になると得点を重ねたことから'''読売キラー'''の異名で呼ばれ<ref>{{Cite book|和書|title=Jリーグ熱狂読本|page=22|year=1993|publisher=[[PHP研究所]]}}</ref> スーパーサブとして活躍した{{R|fb2000}}。 |
[[1989年]]に同校を卒業し、[[日本サッカーリーグ]]1部の[[日産自動車サッカー部]](現[[横浜F・マリノス]])に加入。当初は日産の厚い選手層の中で出場機会を得られずにいたが、1990-91シーズンに[[ジョゼ・オスカー・ベルナルディ|オスカー]]監督の抜擢によりリーグデビュー<ref> [[ストライカー (雑誌)|ストライカー]] 1991年7月号 付録 オスカーのインテリジェントサッカー全科 p.3-10</ref>。縦への鋭い突破で、第8節の[[読売サッカークラブ]](現[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]])戦で初得点を決めると、その後も1990-91シーズン後期、[[1992年のJリーグカップ]]、[[第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会]]決勝延長戦での決勝ゴールなど<ref> [[サッカーマガジン]] 1993年2月21日号 no.409 p.5-10 [[ベースボールマガジン社]] </ref>、読売クラブや後継の東京V戦になると得点を重ねたことから'''読売キラー'''の異名で呼ばれ<ref>{{Cite book|和書|title=Jリーグ熱狂読本|page=22|year=1993|publisher=[[PHP研究所]]}}</ref> スーパーサブとして活躍した{{R|fb2000}}。 |
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[[1991年]]に[[オリンピックのサッカー競技・日本代表選手|バルセロナ五輪予選代表]]に選ばれ、翌1992年のアジア最終予選に出場{{R|fct2000}}。また[[ハンス・オフト]]監督時代には[[サッカー日本代表|日本代表]]にも |
[[1991年]]に[[オリンピックのサッカー競技・日本代表選手|バルセロナ五輪予選代表]]に選ばれ、翌1992年のアジア最終予選に出場{{R|fct2000}}。また[[ハンス・オフト]]監督時代には[[サッカー日本代表|日本代表]]にも召集され、アジアカップのメンバーにも選出されたが、[[国際Aマッチ]]出場機会はなかった。 |
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[[1996年]]、[[ジャパンフットボールリーグ]]・[[ヴィッセル神戸]]へ移籍。同年のリーグ戦で二桁得点を挙げ、翌年からのJリーグ昇格に貢献したが、Jリーグでは振るわず[[1998年]]限りで契約非更新となる。[[1999年]]よりJリーグは2部制([[Jリーグ ディビジョン2|J2]]創設)となり、J2・[[大分トリニータ]]に加入。MF[[崔大植]]という良きパートナーを得たことで<ref>{{Cite book|title=秋天の陽炎 (文庫)|author=[[金子達仁]]|page=39|year=2003|publisher=[[文藝春秋]]}}</ref> 持ち前のスピード<ref name="fct2000">{{Wayback|date=20001207040000|url=http://www.fctokyo.co.jp/2000/team_info/player.phtml?player=15|title=players info (2000年版)}} FC東京</ref> も活き、経験で培ったポジショニングとアイデアで{{R|fb2000}}[[ウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラデ|ウィル]]、[[真下佐登史]]、[[リボニール・ルッシェル|ツゥット]]らとの得点王争いを制して初代J2得点王となった。 |
[[1996年]]、[[ジャパンフットボールリーグ]]・[[ヴィッセル神戸]]へ移籍。同年のリーグ戦で二桁得点を挙げ、翌年からのJリーグ昇格に貢献したが、Jリーグでは振るわず[[1998年]]限りで契約非更新となる。[[1999年]]よりJリーグは2部制([[Jリーグ ディビジョン2|J2]]創設)となり、J2・[[大分トリニータ]]に加入。MF[[崔大植]]という良きパートナーを得たことで<ref>{{Cite book|title=秋天の陽炎 (文庫)|author=[[金子達仁]]|page=39|year=2003|publisher=[[文藝春秋]]}}</ref> 持ち前のスピード<ref name="fct2000">{{Wayback|date=20001207040000|url=http://www.fctokyo.co.jp/2000/team_info/player.phtml?player=15|title=players info (2000年版)}} FC東京</ref> も活き、経験で培ったポジショニングとアイデアで{{R|fb2000}}[[ウィル・ロブソン・エミリオ・アンドラデ|ウィル]]、[[真下佐登史]]、[[リボニール・ルッシェル|ツゥット]]らとの得点王争いを制して初代J2得点王となった。 |
2024年2月23日 (金) 15:46時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | ジン[1] | |||||
カタカナ | ジンノ タクヤ | |||||
ラテン文字 | JINNO Takuya | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1970年6月1日(54歳) | |||||
出身地 | 埼玉県草加市[2] | |||||
身長 | 180cm[3] | |||||
体重 | 75kg[3][1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW[3]、MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1989-1995 | 日産自動車/横浜マリノス | 113 | (12) | |||
1996-1998 | ヴィッセル神戸 | 87 | (13) | |||
1999 | 大分トリニータ | 36 | (19) | |||
2000 | FC東京 | 18 | ( 4) | |||
2001 | 大分トリニータ | 9 | ( 0) | |||
2001-2003 | 横浜FC | 75 | (16) | |||
代表歴 | ||||||
1988 | 日本ユース | |||||
1992 | 日本 | 0 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2017-2020 | ニッパツ横浜FCシーガルズ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
神野 卓哉(じんの たくや、1970年6月1日 - )は、埼玉県草加市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションは主にフォワード(FW)。
来歴
修徳高校在学時に頭角を現し、2年次には東京都選抜の一員として国体でベスト4[4]、3年次には高校総体でベスト8に進出した[5]。
1989年に同校を卒業し、日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)に加入。当初は日産の厚い選手層の中で出場機会を得られずにいたが、1990-91シーズンにオスカー監督の抜擢によりリーグデビュー[6]。縦への鋭い突破で、第8節の読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)戦で初得点を決めると、その後も1990-91シーズン後期、1992年のJリーグカップ、第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝延長戦での決勝ゴールなど[7]、読売クラブや後継の東京V戦になると得点を重ねたことから読売キラーの異名で呼ばれ[8] スーパーサブとして活躍した[9]。
1991年にバルセロナ五輪予選代表に選ばれ、翌1992年のアジア最終予選に出場[4]。またハンス・オフト監督時代には日本代表にも召集され、アジアカップのメンバーにも選出されたが、国際Aマッチ出場機会はなかった。
1996年、ジャパンフットボールリーグ・ヴィッセル神戸へ移籍。同年のリーグ戦で二桁得点を挙げ、翌年からのJリーグ昇格に貢献したが、Jリーグでは振るわず1998年限りで契約非更新となる。1999年よりJリーグは2部制(J2創設)となり、J2・大分トリニータに加入。MF崔大植という良きパートナーを得たことで[10] 持ち前のスピード[4] も活き、経験で培ったポジショニングとアイデアで[9]ウィル、真下佐登史、ツゥットらとの得点王争いを制して初代J2得点王となった。
2000年、J1・FC東京へと移籍。ゴール前へ飛び込む勇気を評価されていたが[9]、負傷による出遅れの間に[11] FWにはアマラオとツゥットの2トップが定着。攻撃の活性化を図るための途中出場や、アマラオ負傷の間の穴埋めといった役割が主となり、1年限りで退団した[12]。2001年には大分へ復帰。
2001年7月よりJ2・横浜FCへ移籍。合流直後のサガン鳥栖戦で早速得点を挙げ[13]、主力の一角として活躍した。2003年限りで現役を引退[14]。2004年[14]から2009年まで同クラブで強化担当を務めた[15]。
2010年より株式会社オンゼの代表取締役に就いている。2011年、ガイナーレ鳥取強化部スタッフを務める。同年、A級コーチジェネラルライセンス取得[16]。
2012年より、アビスパ福岡のチーム統括部長に就任[17]。同年S級ライセンス取得[18]。福岡のJ1復帰を果たせず、2014年限りで退任[19]。
2015年よりAC長野パルセイロの強化部長に就任[20]。2016年11月退任[21]。
2017年6月、古巣である横浜FCの会長兼スポーツダイレクターである奥寺康彦から「やってくれ」とのオファーを受け[22]、ニッパツ横浜FCシーガルズの監督に就任[23]。
2020年10月14日、ニッパツ横浜FCシーガルズと監督の契約を解除して退任した[24]。
2021年シーズンよりFC琉球の強化部長に就任[25]。2022年シーズンまで務めた。
2023年シーズンは、いわてグルージャ盛岡の強化部長に就任。シーズン途中の5月にGMに就任、強化部長との兼任業務となった[26]。
所属クラブ
- 住吉スポーツ少年団 (草加市立稲荷小学校)[14][9]
- 草加市立松江中学校[3][14]
- 修徳高等学校[3]
- 1989年 - 1995年 日産自動車 / 横浜マリノス
- 1996年 - 1998年 ヴィッセル神戸
- 1999年 大分トリニータ
- 2000年 FC東京
- 2001年1月 - 同年6月 大分トリニータ
- 2001年7月 - 2003年 横浜FC
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1989-90 | 日産 | 22 | JSL1部 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||||
1990-91 | 15 | 4 | 0 | 0 | |||||||
1991-92 | 19 | 15 | 0 | 1 | 0 | ||||||
1992 | 横浜M | - | J | - | 9 | 3 | 5 | 2 | 14 | 5 | |
1993 | 19 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 21 | 2 | |||
1994 | 25 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 27 | 3 | |||
1995 | 39 | 3 | - | 1 | 0 | 40 | 3 | ||||
1996 | 神戸 | 11 | 旧JFL | 30 | 10 | - | 3 | 2 | 33 | 12 | |
1997 | J | 29 | 1 | 6 | 0 | 2 | 0 | 37 | 1 | ||
1998 | 28 | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 33 | 3 | |||
1999 | 大分 | 28 | J2 | 36 | 19 | 4 | 1 | 3 | 6 | 43 | 26 |
2000 | FC東京 | 15 | J1 | 18 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 20 | 4 |
2001 | 大分 | 28 | J2 | 9 | 0 | 4 | 0 | - | 13 | 0 | |
横浜FC | 26 | 25 | 8 | - | 4 | 5 | 29 | 13 | |||
2002 | 16 | 40 | 8 | 0 | 0 | 2 | 0 | 42 | 8 | ||
2003 | 10 | 0 | - | 0 | 0 | 10 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 158 | 15 | 24 | 3 | 10 | 3 | 192 | 21 | |
日本 | J2 | 120 | 35 | 8 | 1 | 9 | 11 | 137 | 47 | ||
日本 | JSL1部 | 30 | 4 | 2 | 0 | ||||||
日本 | 旧JFL | 30 | 10 | - | 3 | 2 | 33 | 12 | |||
総通算 | 338 | 64 | 34 | 4 |
- その他の公式戦
- 1998年
- J1参入決定戦 2試合0得点
- 出場歴
- 1993年5月19日:Jリーグ初出場 - サントリーシリーズ第2節 vsガンバ大阪 (三ツ沢)[3]
- 1993年7月鹿島アントラーズ (カシマ)[3] 3日:Jリーグ初得点 - サントリーシリーズ第15節 vs
代表歴
- 日本代表 (1992年、0試合0得点)
指導歴・職歴
- 2004年 - 2009年 横浜FC 強化担当
- 2010年 パルピターレ / 横浜シーサイドフォーラムSC コーチ[18]
- 2011年 ガイナーレ鳥取 強化部
- 2012年 - 2014年 アビスパ福岡 チーム統括部長
- 2015年 - 2016年 AC長野パルセイロ 強化部長
- 2017年6月 - 2020年10月 ニッパツ横浜FCシーガルズ 監督
- 2021年 - 2022年 FC琉球 強化部長
- 2023年 - いわてグルージャ盛岡
- 2023年 - 強化部長
- 2023年5月 - GM(兼任)
タイトル
- 1999年 J2得点王 (初代J2得点王 / 大分トリニータ)
脚注
- ^ a b Player's Profile - FW (1998年版) - ウェイバックマシン(1999年1月27日アーカイブ分) ヴィッセル神戸
- ^ トップアスリートに聞く食事学 Vol.13 日本トップリーグ機構 (2010年6月29日)
- ^ a b c d e f g 登録選手一覧表 Jリーグ (2003年12月5日)
- ^ a b c players info (2000年版) - ウェイバックマシン(2000年12月7日アーカイブ分) FC東京
- ^ 修徳高校サッカー部 戦績
- ^ ストライカー 1991年7月号 付録 オスカーのインテリジェントサッカー全科 p.3-10
- ^ サッカーマガジン 1993年2月21日号 no.409 p.5-10 ベースボールマガジン社
- ^ 『Jリーグ熱狂読本』PHP研究所、1993年、22頁。
- ^ a b c d 『FC東京ファンブック2000』毎日新聞社、2000年、46-47頁。
- ^ 金子達仁 (2003). 秋天の陽炎 (文庫). 文藝春秋. p. 39
- ^ 試合記録 J1 1st第9節 FC東京 (2000年4月29日)
- ^ 来季契約非継続選手について - ウェイバックマシン(2004年5月13日アーカイブ分) FC東京 (2000年12月1日)
- ^ 登録選手 神野卓哉 (2001年版) - ウェイバックマシン(2001年9月5日アーカイブ分) 横浜FC
- ^ a b c d 横浜FCからのお知らせ J's GOAL (2003年12月25日)
- ^ 横浜FC神野卓哉強化ディレクター退任のお知らせ J's GOAL (2009年12月4日)
- ^ 2010(平成22)年度 公認A級コーチジェネラル養成講習会 合格者 【84名】 (PDF) 日本サッカー協会 2011.04.14
- ^ 神野 卓哉 氏 チーム統括部長 就任内定 アビスパ福岡 2011.11.28
- ^ a b 2012年度第6回理事会 報告事項 (PDF) 日本サッカー協会 (2012年9月13日)
- ^ 神野 卓哉 チーム統括部長 退任のお知らせ アビスパ福岡 (2014年11月5日)
- ^ 強化部長就任のおしらせ AC長野パルセイロ 2014.12.08
- ^ 神野強化部長退任のお知らせ AC長野パルセイロ 2016.11.06
- ^ 「J1とJ2」「女子と男子」は何が違う?“初代J2得点王”の神野卓哉監督に聞いてみた Football Web Magazine Qoly 2018年12月8日
- ^ 『ニッパツ横浜FCシーガルズ 神野卓哉 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)横浜FC、2017年6月14日 。2017年6月16日閲覧。
- ^ 『監督交代のお知らせ』(プレスリリース)ニッパツ横浜FCシーガルズ、2020年10月14日 。2020年10月16日閲覧。
- ^ 『神野卓哉氏 強化部長就任のお知らせ』(プレスリリース)FC琉球、2020年12月10日 。2020年12月11日閲覧。
- ^ “【クラブ】神野卓哉氏 GM就任のお知らせ”. いわてグルージャ盛岡 (2023年5月8日). 2023年5月11日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 神野卓哉 - Soccerway.com
- 神野卓哉 - WorldFootball.net
- 神野卓哉 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 神野卓哉 - J.League Data Siteによる選手データ
- 神野卓哉 - J.League Data Siteによる監督データ
- 神野卓哉 - TheFinalBall.com
- 神野卓哉オフィシャルブログ
- 神野卓哉 (@TakuyaJINNO) - X(旧Twitter)