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2024年1月9日 (火) 01:50時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | アジアの壁 | |||||
カタカナ | イハラ マサミ | |||||
ラテン文字 | IHARA Masami | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1967年9月18日(57歳)[1] | |||||
出身地 | 滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)[1] | |||||
身長 | 182cm[1] | |||||
体重 | 74kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1983-1985 | 滋賀県立守山高等学校 | |||||
1986-1989 | 筑波大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1990-1992 | 日産自動車 | 44 | (2) | |||
1993-1999 |
横浜マリノス 横浜F・マリノス | 271 | (3) | |||
2000 | ジュビロ磐田 | 20 | (1) | |||
2001-2002 | 浦和レッズ | 64 | (1) | |||
代表歴2 | ||||||
1988-1999[2] | 日本 | 122 | (5) | |||
監督歴 | ||||||
2009,2013 | 柏レイソル(代行) | |||||
2015-2018 | アビスパ福岡 | |||||
2022 | 柏レイソル(代行) | |||||
2023- | 柏レイソル | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2003年1月1日現在。 2. 1999年7月5日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
井原 正巳(いはら まさみ、1967年9月18日 - )は、滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)出身[3]の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。元日本代表。現在はJリーグ・柏レイソルの監督を務めている。
1990年代のJリーグを代表するディフェンダー(センターバック)で「アジアの壁」と呼ばれ[4]、キャプテンとして1998 FIFAワールドカップに出場した。サッカー日本代表のA代表CAP数122は遠藤保仁に抜かれるまで歴代1位であった[5]。
来歴
プロ入り前から現役引退まで
小学3年生の頃兄がプレーしていた[6]、貴生川サッカー少年団でサッカーを始めた[7]。水口中学を経て[8]、滋賀県立守山高等学校へと進学した[8]。高校時代の2学年先輩に美濃部直彦がいる。1984年に全国高校サッカー選手権に出場した[6]。高校卒業後は筑波大学へ進学して蹴球部に所属した。大学入り前に行われた、ワールドユースに向けたセレクションのメンバーに選抜されたが、ディフェンダーのポジションには空きがあったことから「やってみないか?」と勧められたことがきっかけとなり[6]、フォワードからディフェンダーに転向した[9]。筑波では1986年、1987年に関東リーグと総理大臣杯で連覇を果たした[6]。筑波大学2年時に日本代表に選出された。
筑波大学時代、当時ディフェンダーだった中山雅史とセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務め[10]、アルバイトも同じ所でするなど公私共に仲が良かった[10]。
日産、横浜マリノス時代
大学卒業後は日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)に入部、一時はボランチも経験したが、ディフェンダーとしてプレーした。1991-92年、19992-93年シーズンには天皇杯とアジアカップウィナーズカップの連覇に貢献した。
1993年Jリーグ開幕節 (5月15日) のヴェルディ川崎戦に出場、同年5月29日のジェフユナイテッド市原戦ではJリーグのオウンゴール第1号を記録した[11]。1994年5月4日のヴェルディ川崎戦でJリーグ初ゴールを挙げた[12]。1995年はJリーグ1stステージで優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップでは、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでダイビングヘッドによる決勝ゴールを決め、マリノス初のJリーグ年間優勝に大きく寄与した[13]。
ジュビロ、レッズ時代
前身の日産時代から10シーズンをマリノスでプレーし「ミスターマリノス」とまで言われたが[14]、マリノスからのコーチ就任要請を蹴って、2000年にジュビロ磐田へ移籍。
2001年からは、以前日本代表で共に戦った福田正博が在籍していた浦和レッドダイヤモンズに移籍した。5月19日のガンバ大阪戦での移籍後初ゴールは[15]、現役最後のゴールとなった。同年行われた2002年W杯1次リーグの組み合わせ抽選会ではアジア代表としてドロワーを務めた。
2002年のJリーグ最終節、古巣横浜F・マリノス戦で先発フル出場をしたのを最後に[16]、チームメイトの福田正博と共に現役を引退した。Jリーグ通算297試合、5得点。2004年1月4日、国立競技場で引退試合が開催され、この時ゴールを決めた[17]。
代表経歴
大学2年時に日本代表に選出され[3]、1988年1月27日のアラブ首長国連邦との親善試合でAマッチ初出場を果たした[18][19]。 1990 FIFAワールドカップ・アジア予選では朝鮮民主主義人民共和国に競り負け1次予選敗退。1992年のAFCアジアカップ1992ではグループリーグ最終戦のイラン戦で、敗退濃厚な中での終盤に起死回生となる三浦知良の決勝ゴールをアシストして決勝トーナメント進出に貢献[20]、決勝ではサウジアラビアを破って初のアジア制覇に貢献。
1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では、1993年5月5日開催の一次予選、スリランカ戦で代表初ゴールを挙げるなど、一次予選、二次予選の全試合に先発フル出場したが、あと一歩のところでW杯出場権を逃す「ドーハの悲劇」を経験した。1994年のアジア大会ではベスト8で敗退したが、その準々決勝の韓国戦で終盤に一時は同点となる目の覚めるようなスーパーロングシュートを決めた[21]。95年に柱谷哲二が代表を退いて以降は、加茂周代表監督によってキャプテンに指名され、以降代表を外れるまでキャプテンを務めた[22]。
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選最終予選では、第2戦のUAE戦でFKを頭で合わせると、このボールはゴールに向かい、間違いなくゴールラインを割って得点となるところであったが(決勝ゴールになる可能性が高かった。)、オフサイドのポジションに居た小村徳男がゴール欲しさからかボールを触って押し込んだたため、ノーゴルの判定[23]、この決果0-0の引き分けに終わる。この様なこともあり、苦戦を強いられながらも、アウェイでのウズベキスタン戦でロングフィードから終了間際の呂比須ワグナーの同点ゴールをアシスト[24]。最終節のカザフスタン戦で代表で最後となるゴールを決め[19][25]第3代表決定戦進出に貢献すると、イラン代表と決戦を制し、日本のW杯初出場へ導いた。3戦全敗となった1998 FIFAワールドカップでは、大会直前に負傷したが[26]、キャプテンとして[3] 全試合に先発フル出場した。
1999年、コパアメリカではグループリーグの2試合に出場したが、ボリビア戦で[19] 後半83分に、この試合で2度目の警告を受けて退場処分になった[27][28]。次の代表戦となったイラン戦は出場停止であったが、『フィリップ・トルシエ監督は「出場停止であるという理由のみで招集しなかった訳ではない。」とコメント[29]、以降再び招集されることはなかった。
引退後
引退後はNHKサッカー解説、TBSラジオ番組『スポーツBOMBER!』パーソナリティー(2003年度から下半期・木曜日担当)、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダー、びわこ成蹊スポーツ大学客員教授、公共広告機構(現:ACジャパン)・骨髄バンクCMなど各方面で活躍するかたわら、S級ライセンスを取得し指導者の道を歩んでいる。日本各地の少年サッカー教室に参加するなどサッカーの普及にも力を注いでいる。2005年には洪明甫と共に日韓親善大使に選ばれた。2006年4月にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得した[1]。
これにより、日本代表及びJリーグ監督に就任出来る事になった。 2009年2月、柏レイソルのヘッドコーチに就任[1]。同年7月、監督の高橋真一郎が解任され、後任監督が決定するまでの代行監督を務めた。2013年にはシーズン中に監督の辞意を表明したネルシーニョに代わって天皇杯の1試合指揮をとった(その後ネルシーニョは辞意を撤回)。2014年限りで柏との契約を満了し退任。
2015年よりアビスパ福岡の監督に就任[30]。 最終的には2位磐田と並ぶ勝ち点82の成績を収めたが、得失点差により順位は3位となりJ1自動昇格は叶わず、J1昇格プレーオフに回ることとなった。 そのプレーオフの決勝戦において、4位のセレッソ大阪と1-1で引き分けたが、年間順位で上回った為チームを5年ぶりのJ1の舞台に導いた。
2016年シーズンは5年ぶりとなるJ1の舞台で指揮を執ったが、J11stステージで2勝5分10敗、2ndステージで2勝2分13敗と苦しみ、1年でJ2降格となった。
2017年シーズンは21勝11分10敗で4位となり、J1昇格プレーオフに進出。決勝戦で名古屋グランパスと1年でのJ1復帰を賭けて対戦。試合は0-0の引き分けで終了し、レギュレーションによりJ2残留となった。
2018年11月17日、J2第42節・FC岐阜戦終了後の会見で、J1昇格を逃したことに対する責任を取り、辞任を表明[31][32]。 11月19日、アビスパ福岡の公式サイト上で2018シーズンをもって退任することが発表された[33]。
2018年12月13日、柏レイソルのヘッドコーチに復帰した[34]。2022年4月、左アキレス腱を断裂して手術を受けたネルシーニョが復帰した29日までの間、代行監督を務めた。柏での監督代行はこれで3度目となった。 2023年5月17日、チームの成績不振(リーグ戦2勝5分6敗の16位)で退任する事になったネルシーニョ監督の後任として、柏レイソルの監督に就任した[35]。
プレースタイルと評価
その鉄壁の守備から「アジアの壁」といわれ、冷静な判断と鋭い読み、向かってくる相手選手からボールを奪う上手さ、体をぶつけられても倒れない強さなど、ディフェンダーとしての要素を全て備えていた[36]、警告を受けることは余り無かったが、激しい当たりなど、肉弾戦も繰り広げた[37]。永島昭浩は、総合的に判断すると歴代最高のDFであったと評価した[38]。ペレイラも同様に、当時のJリーグの選手の中では最高のDFとして名前を挙げた[39]。また洪明甫か井原か、どちらがアジア最高のリベロか、という比較が日本、韓国メディアで盛んに行われていた[40]。
2020年にサッカーダイジェストが企画した、これまでのJリーグ歴代ベストイレブンを選ぶ企画では、様々な人物からJリーグ歴代のベストイレブンに選出された[38][41][42][43][44][45][46][47][48][49]。また阿部勇樹は幼少期の頃に好きだった選手として名前を挙げた[50]。
所属クラブ
- 1983年 - 1985年 滋賀県立守山高等学校[1]
- 1986年 - 1989年 筑波大学[1]
- 1990年 - 1999年 日産自動車 / 横浜マリノス/横浜F・マリノス[1]
- 2000年 ジュビロ磐田[1]
- 2001年 - 2002年 浦和レッドダイヤモンズ[1]
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | 日産 | 4 | JSL1部 | 22 | 2 | 4 | 0 | ||||
1991-92 | 22 | 0 | 3 | 0 | |||||||
1992 | 横浜M | - | J | - | 8 | 0 | 5 | 0 | 13 | 0 | |
1993 | 32 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 33 | 0 | |||
1994 | 41 | 1 | 2 | 0 | 4 | 0 | 47 | 1 | |||
1995 | 47 | 1 | - | 2 | 0 | 49 | 1 | ||||
1996 | 29 | 1 | 13 | 0 | 1 | 0 | 43 | 1 | |||
1997 | 4 | 22 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 24 | 0 | ||
1998 | 27 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 28 | 0 | |||
1999 | 横浜FM | J1 | 25 | 0 | 6 | 0 | 3 | 0 | 34 | 0 | |
2000 | 磐田 | 20 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 23 | 1 | ||
2001 | 浦和 | 3 | 26 | 1 | 6 | 0 | 4 | 0 | 36 | 1 | |
2002 | 28 | 0 | 9 | 1 | 0 | 0 | 37 | 1 | |||
通算 | 日本 | J1 | 297 | 5 | 47 | 1 | 23 | 0 | 367 | 6 | |
日本 | JSL1部 | 44 | 2 | 7 | 0 | 10 | 2 | 61 | 4 | ||
総通算 | 341 | 7 | 54 | 1 | 33 | 2 | 428 | 10 |
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 7試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 1試合0得点
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 1996年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- 2000年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
背番号
- 4 - 横浜マリノス / 横浜F・マリノス, ジュビロ磐田, 日本代表・1998 FIFAワールドカップ時
- 7 - 日本代表・1994 FIFAワールドカップ・アジア予選最終予選時
- 3 - 浦和レッズ
個人タイトル
- 1990/1991年 - 日本サッカーリーグ新人賞
- 1993年 - Jリーグベストイレブン
- 1994年 - Jリーグベストイレブン
- 1995年 - Jリーグベストイレブン、アジア年間最優秀選手賞
- 1996年 - Jリーグベストイレブン
- 1997年 - Jリーグベストイレブン
- 2003年 - Jリーグ功労選手賞
- 2013年 - Jクロニクルベスト ベストイレブン
- 2023年 - J30ベストアウォーズ ベストイレブン
代表歴
出場大会など
- 1998 FIFAワールドカップ(キャプテン)
- サッカーの聖地ウェンブリー・スタジアムでの日本代表選手 唯一の得点者(1995)
イングランド代表戦(アンブロカップ)
試合数
- 国際Aマッチ 122試合(全試合先発出場) 5得点(1988年 - 1999年)[2]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1988 | 5 | 0 |
1989 | 11 | 0 |
1990 | 6 | 0 |
1991 | 2 | 0 |
1992 | 11 | 0 |
1993 | 15 | 2 |
1994 | 9 | 1 |
1995 | 16 | 1 |
1996 | 13 | 0 |
1997 | 21 | 1 |
1998 | 10 | 0 |
1999 | 3 | 0 |
通算 | 122 | 5 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1993年5月5日 | アラブ首長国連邦、ドバイ | スリランカ | 6-0 | 勝利 | 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
2 | ||||||
3 | 1994年10月11日 | 日本、広島市 | 韓国 | 2-3 | 敗戦 | アジア競技大会 |
4 | 1995年6月3日 | イングランド、ロンドン | イングランド | 1-2 | 敗戦 | アンブロ・カップ |
5 | 1997年11月8日 | 日本、東京 | カザフスタン | 5-1 | 勝利 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
指導歴
- 2006年8月 - 2008年8月 U-23日本代表 アシスタントコーチ
- 2009年 - 2014年12月 柏レイソル ヘッドコーチ
- 2009年7月・2013年9月 監督代行
- 2015年 - 2018年 アビスパ福岡 監督
- 2019年 - 柏レイソル
- 2019年 - 2023年5月 ヘッドコーチ
- 2022年4月 監督代行
- 2023年5月 - 監督
- 2019年 - 2023年5月 ヘッドコーチ
監督成績
年度 | クラブ | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | ||||
2009 | 柏 | J1 | - | 1 | 2 | 0 | 1 | 1 | - | - | |
2015 | 福岡 | J2 | 3位 | 82 | 42 | 24 | 10 | 8 | - | 3回戦敗退 | |
2016 | J1・1st | 18位 | 18位 | 11 | 17 | 2 | 5 | 10 | ベスト8 | 2回戦敗退 | |
J1・2nd | 18位 | 8 | 17 | 2 | 2 | 13 | |||||
2017 | J2 | 4位 | 74 | 42 | 21 | 11 | 10 | ‐ | 3回戦敗退 | ||
2018 | 7位 | 70 | 42 | 19 | 13 | 10 | ‐ | 3回戦敗退 | |||
2023 | 柏 | J1 | 位 |
- 2009年は代行。
- 2023年は第14節より指揮。
出演
CM
テレビ番組
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k “PROFILE”. 井原正巳オフィシャルサイト. 2014年11月2日閲覧。
- ^ a b “井原 正巳”. サッカー日本代表データベース. 2014年8月26日閲覧。
- ^ a b c “井原正巳杯”. iharamasamicup.com 3 May 2020閲覧。
- ^ 『2015年 J1&J2&J3選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2015年、214頁頁。ISBN 978-4-905411-24-6。
- ^ “個人記録”. サッカー日本代表データベース. 2014年8月26日閲覧。
- ^ a b c d POPEYE 1993/7/7 p.26
- ^ “鉄壁の守備で「アジアの壁」とも呼ばれた元日本代表 サッカー 井原 正巳”. しがスポーツナビ. 2023年4月17日閲覧。
- ^ a b “井原正巳プロファイル”. 井原正巳公式サイト. 2023年4月17日閲覧。
- ^ “柏レイソル ヘッドコーチ 井原正巳さん”. 明治安田生命. 2023年4月17日閲覧。
- ^ a b Number 2013年10月17日号 no.839 p.22-26
- ^ “No.112 オウンゴールは不名誉ではない”. サッカーの話をしよう 大住良之オフィシャルアーカイブサイト (1995年8月1日). 2014年8月26日閲覧。
- ^ “井原 正巳”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “95Jリーグサントリーチャンピオンシップ 第2節”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “井原氏が横浜FM復帰、ユース監督就任へ”. ゲキサカ (2008年12月3日). 2023年4月17日閲覧。
- ^ “2001Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第10節”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “2002Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第15節”. data.j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “井原正巳引退試合”. www.urawa-reds.co.jp 17 April 2020閲覧。
- ^ “アラブ首長国連邦代表 vs 日本 1988年1月27日”. samuraiblue.jpl 17 April 2020閲覧。
- ^ a b c “井原正巳”. jfootball 17 April 2020閲覧。
- ^ “日本サッカーの未来が懸かった一戦。 窮地を救ったカズの魂の右足”. news.yahoo.co.jp 3 June 2020閲覧。
- ^ “井原が明かす韓国戦の豪快ミドルと悪夢のPK、ファルカンのスピード解任”. SPORTIVA (2020年5月27日). 2023年5月3日閲覧。
- ^ “井原正巳が考える「理想のリーダー像」元サッカー日本代表キャプテンインタビュー”. さくマガ (2020年8月18日). 2023年5月3日閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 1997//10/8 p.11
- ^ 呂比須 小学館、1998年 ISBN 9784093794824 p.168
- ^ “日本 vs カザフスタン 1997年11月8日”. samuraiblue.jpl 17 April 2020閲覧。
- ^ “カズ落選、アトランタ世代の台頭…井原正巳はW杯初出場チームをどうまとめ上げたのか?” 12 May 2020閲覧。
- ^ “日本 vs ボリビア 1999年7月5日”. samuraiblue.jpl 17 April 2020閲覧。
- ^ “日本 vs ボリビア 1999年7月5日”. jfootball 17 April 2020閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 1999年10月6日 no.731号 p.10-11 ベースボールマガジン社
- ^ 『井原 正巳 氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)アビスパ福岡、2014年12月15日。オリジナルの2015年12月19日時点におけるアーカイブ 。2015年1月13日閲覧。
- ^ “福岡井原監督がJ1逃し辞任表明「すべて私の責任」”. 日刊スポーツ (2018年11月17日). 2018年11月17日閲覧。
- ^ “福岡・井原監督が辞任を表明 最終戦ドローでPO圏外7位転落「結果が出なかったのは私の責任”. Sponichi Annex (2018年11月17日). 2018年11月17日閲覧。
- ^ 『井原正巳 監督 退任のお知らせ』(プレスリリース)アビスパ福岡、2018年11月19日 。2018年11月19日閲覧。
- ^ 『井原 正巳ヘッドコーチ 就任のお知らせ』(プレスリリース)柏レイソル、2018年12月13日 。2018年12月17日閲覧。
- ^ 『監督交代のお知らせ』(プレスリリース)柏レイソル、2023年5月17日 。2023年5月17日閲覧。
- ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、123ページ、ISBN 4-591-09115-5
- ^ “井原正巳の献身とジョホールバル 1998W杯予選”. number.bunshun.jp 3 May 2020閲覧。
- ^ a b “永島昭浩が選ぶJ歴代ベスト11”. www.soccerdigestweb.com 20 May 2020閲覧。
- ^ “「子供が礼儀正しく育ったよ」名手ブラジル人DFと妻が感謝する“Jリーグと日本愛”「イハラはクレバー、ナカヤマは非常に危険で…」ファン人気とか意識してる選手はいたね”. NUMBER (2023年5月20日). 2023年5月20日閲覧。
- ^ DEAR KAZU 僕を育てた55通の手紙 p.161-164ページ
- ^ “英国の熟練記者が選ぶJ歴代ベスト11”. www.soccerdigestweb.com 3 May 2020閲覧。
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- ^ “仲川輝人が選ぶJ歴代ベスト11”. www.soccerdigestweb.com 3 May 2020閲覧。
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- ^ “ぺこぱのシュウペイが選ぶJ歴代ベスト11”. www.soccerdigestweb.com 3 May 2020閲覧。
- ^ “阿部勇樹 理想への階段”. number.bunshun.jp 3 May 2020閲覧。
関連項目
- 滋賀県出身の人物一覧
- 筑波大学の人物一覧
- 横浜F・マリノスの選手一覧
- ジュビロ磐田の選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- ドーハの悲劇
- ジョホールバルの歓喜
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- Jリーグ監督経験者
外部リンク
- 井原正巳 - National-Football-Teams.com
- 井原正巳 - Soccerway.com
- 井原正巳 - FootballDatabase.eu
- 井原正巳 - WorldFootball.net
- 井原正巳 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 井原正巳 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 井原正巳 - FIFA主催大会成績
- 井原正巳 - J.League Data Siteによる選手データ
- 井原正巳 - J.League Data Siteによる監督データ
- 公式ウェブサイト
- アビスパ福岡|監督 井原 正巳
- 柏レイソルによる公式プロフィール
- 井原正巳
- 日本のサッカー選手
- サッカー日本代表選手
- FIFAワールドカップ日本代表選手
- 1998 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手
- キング・ファハド・カップ1995出場選手
- AFCアジアカップ日本代表選手
- AFCアジアカップ1988出場選手
- AFCアジアカップ1992出場選手
- AFCアジアカップ1996出場選手
- アジア競技大会サッカー日本代表選手
- 筑波大学蹴球部の選手
- 日産自動車サッカー部の選手
- 横浜F・マリノスの選手
- ジュビロ磐田の選手
- 浦和レッドダイヤモンズの選手
- FIFAセンチュリークラブ
- アジア年間最優秀選手賞受賞者
- 日本のサッカー指導者
- 柏レイソルの監督
- アビスパ福岡の監督
- NHK紅白歌合戦審査員
- サッカー解説者
- びわこ成蹊スポーツ大学の教員
- 滋賀県出身の人物
- 1967年生
- 存命人物