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[[梶井基次郎]]らの『[[青空 (雑誌)|青空]]』に参加した。梶井の『ある心の風景』の"病気の話"や"朝鮮の鈴の話"は浅見からきいた話によるものと、中谷孝雄は述べている<ref>{{Cite book|和書 |title=梶井基次郎 |year=1961 |publisher=筑摩書房}}{{要ページ番号|date=2021-05}}</ref>。『[[新青年 (日本)|新青年]]』に[[アガサ・クリスティー]]の『通りすがりの男』や、[[ダシール・ハメット]]の『緑色のネクタイ』の邦訳を掲載したこともある。
[[梶井基次郎]]らの『[[青空 (雑誌)|青空]]』に参加した。梶井の『ある心の風景』の"病気の話"や"朝鮮の鈴の話"は浅見からきいた話によるものと、中谷孝雄は述べている<ref>{{Cite book|和書 |title=梶井基次郎 |year=1961 |publisher=筑摩書房}}{{要ページ番号|date=2021-05}}</ref>。『[[新青年 (日本)|新青年]]』に[[アガサ・クリスティー]]の『通りすがりの男』や、[[ダシール・ハメット]]の『緑色のネクタイ』の邦訳を掲載したこともある。


[[1930年]]に[[京都大学大学院文学研究科・文学部|京都帝国大学文学部]]仏文科を卒業。
[[1930年]]に[[京都大学#沿革|京都帝国大学]][[京都大学大学院文学研究科・文学部|文学部]]仏文科を卒業。


その後、[[天理大学]]、[[関西大学]]、[[京都外国語大学]]で教授を務めた。
その後、[[天理大学]]、[[関西大学]]、[[京都外国語大学]]で教授を務めた。

2022年8月20日 (土) 07:21時点における最新版

浅見 篤(あさみ あつし、1903年9月15日 - 1975年)は、日本フランス文学者浅見淵の実弟。

来歴

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梶井基次郎らの『青空』に参加した。梶井の『ある心の風景』の"病気の話"や"朝鮮の鈴の話"は浅見からきいた話によるものと、中谷孝雄は述べている[1]。『新青年』にアガサ・クリスティーの『通りすがりの男』や、ダシール・ハメットの『緑色のネクタイ』の邦訳を掲載したこともある。

1930年京都帝国大学文学部仏文科を卒業。

その後、天理大学関西大学京都外国語大学で教授を務めた。

人物

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酒好きで、贅沢屋で、異国趣味のところが梶井基次郎と気が合い、毎晩のように祇園石段下のカフェ『レーヴン』で飲んでいた[要出典]

翻訳

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脚注

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  1. ^ 『梶井基次郎』筑摩書房、1961年。 [要ページ番号]