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「アッシュル・ナツィルパル2世」の版間の差分

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アッシュールナツィルパル2世は前883年に父[[トゥクルティ・ニヌルタ2世]]の跡を継いで王となった。彼は治世中に大規模な遠征に乗り出した。最初の遠征は[[小アジア]]で[[ウラルトゥ]](ナイリ)に至るまでの北方の人々を征服し、[[フリュギア]]から貢納を取り立て、その後{{仮リンク|アラム (地方)|label=アラム地方|en|Aram (region)}}(現代の[[シリア]])に侵攻して[[アラム人]]と[[ハブール川]]と[[ユーフラテス川]]の間の{{仮リンク|新ヒッタイト|en|Neo-Hittites}}の人々を征服した。彼の残酷さは反乱の呼び水となったが、この反乱は2日間の戦いの後決定的に撃破された。彼の記念碑文ではこの虐殺を思い返して次のように語っている<ref>{{cite book|last1=Clare|first1=Israel|last2=Tyler|first2=Moses|title=Library of Universal History Vol 1 - Ancient Oriental Nations|date=1897|publisher=R.S. Peale J.A. Hill|location=New York|page=151|url=https://books.google.com/books?id=jPFFAQAAMAAJ}}</ref>。
アッシュールナツィルパル2世は前883年に父[[トゥクルティ・ニヌルタ2世]]の跡を継いで王となった。彼は治世中に大規模な遠征に乗り出した。最初の遠征は[[小アジア]]で[[ウラルトゥ]](ナイリ)に至るまでの北方の人々を征服し、[[フリュギア]]から貢納を取り立て、その後{{仮リンク|アラム (地方)|label=アラム地方|en|Aram (region)}}(現代の[[シリア]])に侵攻して[[アラム人]]と[[ハブール川]]と[[ユーフラテス川]]の間の{{仮リンク|新ヒッタイト|en|Neo-Hittites}}の人々を征服した。彼の残酷さは反乱の呼び水となったが、この反乱は2日間の戦いの後決定的に撃破された。彼の記念碑文ではこの虐殺を思い返して次のように語っている<ref>{{cite book|last1=Clare|first1=Israel|last2=Tyler|first2=Moses|title=Library of Universal History Vol 1 - Ancient Oriental Nations|date=1897|publisher=R.S. Peale J.A. Hill|location=New York|page=151|url=https://books.google.com/books?id=jPFFAQAAMAAJ}}</ref>。


{{cquote|余は彼らを老いも若きも捕虜とした。彼らの幾人かの手足を余は切り落とした。他の者は耳、、唇を余は切り落とした。若者たちの耳で余は塚を築いた。老人たちの頭で余は塔を建てた。余は戦勝の記念として彼らの頭を彼らの都市の前に晒した。男児と女児たちを余は炎の中で焼いた。彼らの都市を余は破壊し、焼き払った。}}
{{cquote|余は彼らを老いも若きも捕虜とした。彼らの幾人かの手足を余は切り落とした。他の者は耳、、唇を余は切り落とした。若者たちの耳で余は塚を築いた。老人たちの頭で余は塔を建てた。余は戦勝の記念として彼らの頭を彼らの都市の前に晒した。男児と女児たちを余は炎の中で焼いた。彼らの都市を余は破壊し、焼き払った。}}


この勝利の後、彼は抵抗を受けること無く[[地中海]]まで進み、[[フェニキア]]から貢納を取り立てた。本国に戻ると、彼は首都をカルフ([[ニムルド]])に遷した。
この勝利の後、彼は抵抗を受けること無く[[地中海]]まで進み、[[フェニキア]]から貢納を取り立てた。本国に戻ると、彼は首都をカルフ([[ニムルド]])に遷した。

2021年4月18日 (日) 16:45時点における版

アッシュールナツィルパル2世
アッシュールナツィルパル2世の石碑大英博物館収蔵。
在位 前883年-前859年

父親 トゥクルティ・ニヌルタ2世
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戦勝の後、アッシュールナツィルパル2世(中央)が高官と面会している

アッシュールナツィルパル2世アッシュール・ナツィル・アプリ / Aššur-nāṣir-apli)「アッシュール神は後継者の守護者である"[1]、在位:前883年-前859年)はアッシリアの王。 アッシュールナツィルパル2世は前883年に父トゥクルティ・ニヌルタ2世の跡を継いで王となった。彼は治世中に大規模な遠征に乗り出した。最初の遠征は小アジアウラルトゥ(ナイリ)に至るまでの北方の人々を征服し、フリュギアから貢納を取り立て、その後アラム地方英語版(現代のシリア)に侵攻してアラム人ハブール川ユーフラテス川の間の新ヒッタイト英語版の人々を征服した。彼の残酷さは反乱の呼び水となったが、この反乱は2日間の戦いの後決定的に撃破された。彼の記念碑文ではこの虐殺を思い返して次のように語っている[2]

余は彼らを老いも若きも捕虜とした。彼らの幾人かの手足を余は切り落とした。他の者は耳、鼻、唇を余は切り落とした。若者たちの耳で余は塚を築いた。老人たちの頭で余は塔を建てた。余は戦勝の記念として彼らの頭を彼らの都市の前に晒した。男児と女児たちを余は炎の中で焼いた。彼らの都市を余は破壊し、焼き払った。

この勝利の後、彼は抵抗を受けること無く地中海まで進み、フェニキアから貢納を取り立てた。本国に戻ると、彼は首都をカルフ(ニムルド)に遷した。

家族

アッシュールナツィルパル2世の父はトゥクルティ・ニヌルタ2世である。アッシュールナツィルパルの息子であり後継者となったのはシャルマネセル3世であった。王妃はムリッス・ムカンニシャト・ニヌア(Mullissu-mukannišat-Ninua)であった。

治世

彼によって建設された宮殿、神殿、その他の建造物によって相当な富の拡大と芸術的な発展が示されている。彼はその残酷さで有名であり、捕虜奴隷をメソポタミアに建設されたアッシリアの新首都カルフ(ニムルド)の建設に用い、ここに多くの印象的なモニュメントを建設した。彼はまた鋭敏な管理者でもあり、現地支配者の貢納に頼るのではなくアッシリア人の総督を任命することで帝国内に大きな支配力を確立した[要出典]

遠征

アッシュールナツィルパル2世の遠征とその時代。

それまでのアッシリアの君主たちのようにアッシュールナツィルパル2世はユーフラテス川沿いでアラム人に、またディヤラ川沿いでバビロンに遠征を行った。反逆者に対するアッシュールナツィルパル2世の残酷な取り扱いによって、軍隊が不在でも彼らは再び反乱を起こすことは無くなった。更なる反乱を起こせば、現地の支配者がアッシリア王に忠実な総督へと挿げ替えられるだけであった。基本的には歩兵補助軍英語版と外国人を含む)、重騎兵および軽騎兵、そして戦車で構成される軍を率い、アッシュールナツィルパル2世は北部シリアのヒッタイト人アラム人の国々を征服した[3]

アッシュールナツィルパル2世は征服したフェニキア人/カナン人の都市を破壊することはなかった。彼はテュロスに対する包囲に失敗した。この都市はイトバアル1世英語版の支配下でキュプロス島キティオンに植民し、エーゲ海を通じてロドスミレトスとの間に交易路を開いた。フェニキアからの貢納はアッシュールナツィルパル2世の軍事費と建築費の原資源となった。武器を作るためにが、建築にはレバノン杉が、軍隊への支払いにはが必要であった。征服した人々について彼は次のように書いている[4]

余は彼らが放棄した町々と家々に彼らを再び住まわせた。余はそれまで以上に彼らに対して、ウマラバウシヒツジ葡萄酒労役のような貢納と税を貸した

ニムルドで発見された一対のラマス英語版メトロポリタン美術館収蔵。

カルフの宮殿

アッシュールナツィルパル2世の宮殿はカルフに建設され前879年に感性した。個の都市は現在のイラクバグダードのやや北方にある。宮殿の壁面にはアラバスター製のレリーフが並べられていた。これらのレリーフには精緻な彫刻が施されており、多くは有翼の守護霊(winged protective spirits)に囲まれたり、狩猟を行ったりしているアッシュールナツィルパル2世を描いている。それぞれには文書が刻まれていた。この碑文は各レリーフでほとんど同じであったため、the Standard Inscriptionと呼ばれている。これはアッシュールナツィルパル2世の系譜を3世代遡るところから始まり、彼の軍事的勝利と帝国の国境を画定したことをを語り、彼がカルフを創建し、この宮殿を建設したことを伝えている。アッシュールナツィルパル2世はまたニムルドに巨大な門を建設した。

イギリスの考古学者オースティン・ヘンリー・レヤードは1840年代にカルフを発掘し、アッシュールナツィルパル2世の北西宮殿を掘り出した。今日、この発掘でニムルドから発見された多くのレリーフと彫刻がロンドン大英博物館のギャラリーで展示されている。この中にはアッシュールナツィルパル2世像英語版黒色オベリスクが含まれており、ヨーロッパ(例えばミュンヘン)、日本、およびアメリカ合衆国の博物館でも別のレリーフが展示されている。

ニムルドのレリーフ

ニムルドから発見されたこのレリーフには有翼の善霊が松かさを持ち王を祝福している。バルチモアウォルターズ美術館収蔵。
即位したアッシュールナツィルパル2世。

前612年にアッシリアが滅亡した後、アッシュールナツィルパル2世の宮殿は草木に埋もれ最終的には完全に土に埋もれた。2500年近い時を経て、1845年にイギリス出身のオースティン・ヘンリー・レヤードが埋没したままのこの都市を再発見した[5]。レヤードは宮殿の発掘を監督した。発掘の間に壁面を覆っていたレリーフは遺跡から剥がされ、コレクションとしてヨーロッパと北アメリカに送られ、特に大英博物館がその大部分を受け取った。この発掘で多くのレリーフが剥がされたが、それでも相当数は宮殿に残され、最終的には時と共に再埋納された。マックス・マローワンが1947年から1957年までこの遺跡を再発掘した。この発掘プロジェクトはこのの遺跡に対する法的な権利を保持していたイラク考古省へと引き継がれた。わかっている宮殿の面積は南北200メートル、東西120メートルである。これは恐らく元々の設計の一部分に過ぎず、上層階があった可能性もあるが、遺構に確固たる証拠は残されていない。宮殿の全ての壁には石の開いたが並んでおり、大部分は浮彫で装飾されていた[5]


アッシュールナツィルパル2世の獅子狩り。ベルリンペルガモン美術館収蔵。

象徴化と目的

これらのレリーフの図像は前870年代の間に一定の標準化が行われていた。レリーフが欠けたものも含めて、これらの石板にはthe Standard Inscriptionと呼ばれるものが刻まれた。この文書はアッシュールナツィルパル2世の様々な名前と称号を書き、彼と神々の関係を語り、彼の軍事的征服を要約して記した。この文書はまた、カルフと宮殿それ自体の創建についても説明している[5]。レリーフがある石板はアッシュールナツィルパル2世の王権イデオロギーの描写で構成されている。このイデオロギーはアッシュールナツィルパル2世の軍事的成功、彼の神々への奉仕、この神々が与える庇護、アッシリアの繁栄という4つの主たる理念に分類できる[5]。人間たちと動物たち双方は特に解剖学的に深い関心をもって描かれている[6]。王による狩猟シーンはニムルドのレリーフの中でも最も良く知られているジャンルの1つであり、特にアッシュールナツィルパル2世の獅子狩りが頻繁に描かれている。これらはまた、多くの場面において人間と動物の間の関係について関心を持って作られている。いくつかの王の描写は動物と人間が組み合わせた超自然的な生物と共に描かれている。これら全ての、魔を祓う図像は宮殿の出入口の両脇を飾ってもおり、人間と動物の合成獣であった。これら魔除けの人物描写の文脈には神性を示す角冠を身に着けた有翼の人物、ロゼッタ文様のあるヘッドバンドを身に着けた有翼の人物、鳥の頭を持つ有翼の人物という3つの主要なタイプがあった[5]

繰り返される題材

ニムルドのレリーフ。

ニムルドのレリーフで頻出するその他のテーマには軍事的遠征とアッシリア人が獲得してきた勝利がある。これらは、より具体的にはアッシリア人と非アッシリア人の関係性を描いたものであった[7]。アッシリア人は常に栄光の瞬間が描かれ、非アッシリア人は這いつくばっているか身をよじっており、しばしば裸である。これらの図像はアッシリアの価値判断に反下ことに対する罰としての暴力的な死と罪に対する無慈悲な懲罰を表現している。これは他の地からやってきた要人に対する明確なメッセージであるだけではなく、アッシリアのエリートたちに対しても同様のメッセージを、即ち王に歯向かうことを決心した時に何が起きるかということを警告するものであったことは明白である[7]。非エリートは仮に宮殿への入場を許可されたとしてもこれらのレリーフを見ることはほとんどなかったかもしれない。エリートたちは通常は王と共に行う儀式や商取引のためにだけこの宮殿に入った。アッシリアの女性たちはこれらのレリーフ彫刻には描写されない傾向にある。これは恐らくこのレリーフの文脈が男性の支配する活動であったことによる[7]。女性を描写しないという、これらのレリーフの場面における例外は、戦争中に奴隷として捕らわれた非アッシリア人の女性である。彼女たちは通常は下層階級ではなく征服された土地のエリートの女性たちであった。男性捕虜とは対照的に、女性たちは拘束されておらず裸で描かれてもいない。女性捕虜は多くの場合床まで届く衣服を来ており、細部では体の一部が露出しているものもある[7]

遺跡の発掘後

アプク(Apqu、現在のテル・アブー・マルヤ)のアッシュールナツィルパル2世の宮殿で発見された金の定礎碑文。

全てのレリーフがニムルドの宮殿から剝がされたわけではなく、非常に限られているものの、それらの多くを元の文脈で見ることができる。多くの博物館はこれらを元の場所と同じ形式で展示することで宮殿の雰囲気を再現しつつニムルドのレリーフを展示している[要出典]

2014年10月、ISIL(イスラム国)過激派はニムルドのアッシュールナツィルパル2世の宮殿を含むイラクの考古遺跡の多くを略奪し、遺品を闇市場に売却した。ロンドンに拠点を置くIraq Heritageの理事(director)Aymen Jawadによれば、「残念ながら、ヨーロッパとアメリカにおいて粘土板文書、写本、楔形文字文書は最も一般的に取引される遺物である」。彼は「数億ドルの価値があるかけがえのない作品が売却され、テロリストの資金源となっている」と言う[8]


ニムルドのレリーフの現在の所在地

大英博物館で展示されている北西宮殿(the north west palace)のレリーフ。
ブルックリン美術館収蔵のニムルドのレリーフ。
王の従者の東部。イラク、ニムルドの北西宮殿で発見。アッシュールナツィルパル2世治世中(前883年-前859年)。イギリスグラスゴーバレル・コレクション英語版

アメリカ合衆国

イギリス

ヨーロッパ

中東

出典

  1. ^ Roux, Georges (1992). Ancient Iraq (Third ed.). New York: Penguin Books. p. 288. ISBN 0-14-012523-X. https://archive.org/details/ancientiraq00roux/page/288 
  2. ^ Clare, Israel; Tyler, Moses (1897). Library of Universal History Vol 1 - Ancient Oriental Nations. New York: R.S. Peale J.A. Hill. p. 151. https://books.google.com/books?id=jPFFAQAAMAAJ 
  3. ^ Healy, Mark (1991). The Ancient Assyrians. New York: Osprey. pp. 10 
  4. ^ Radner, Karen. History: From the Dawn of Civilization to the Present Day. p. 51 
  5. ^ a b c d e Russell, John Malcolm (1998年). “The Program of the Palace of Assurnasirpal II at Nimrud: Issues in the Research and Presentation of Assyrian Art”. American Journal of Archaeology 102 (4): pp. 655–715 
  6. ^ Ataç, Mehmet-Ali (2010). The Mythology of Kingship in Neo-Assyrian Art. New York, NY: Cambridge University Press 
  7. ^ a b c d Cirfarelli, Megan (1998年). “Gesture and Alterity in the Art of Ashurnasirpal II of Assyria”. The Art Bulletin 80 (2): pp. 210–228 
  8. ^ Janine Di Giovanni; Leah McGrath Goodman; Damien Sharkov (November 6, 2014). “How Does ISIS Fund Its Reign of Terror?”. News Week. http://www.newsweek.com/2014/11/14/how-does-isis-fund-its-reign-terror-282607.html January 21, 2015閲覧。 

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外部リンク


先代
トゥクルティ・ニヌルタ2世
新アッシリア王
前883年 - 前859年
次代
シャルマネセル3世