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2021年3月26日 (金) 07:43時点における版
中日ドラゴンズ 二軍投手コーチ #87 | |
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中日二軍投手コーチ時代 (2019年6月23日、ナゴヤ球場にて) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県入間市 |
生年月日 | 1973年7月29日(51歳) |
身長 体重 |
193 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1995年 ドラフト2位(逆指名) |
初出場 |
NPB / 1996年7月26日 KBO / 2009年4月18日 |
最終出場 |
NPB / 2008年5月17日 KBO / 2011年7月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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門倉 健(かどくら けん、1973年7月29日[1] - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。野球解説者。2019年より中日ドラゴンズの二軍投手コーチを務める。[2]
経歴
プロ入り前
入間市立藤沢中学校時代より、中学生にして190cmを超える長身投手として注目を浴びる存在であった。子供の頃は原辰徳のファンだった[3]。
高校は県内の聖望学園高校に進学し[1]、野球部のエースとして頭角を表す[4]。城石憲之が主将の春日部共栄高校に対して相性が悪く、高校3年生時の1991年には春季大会、春季関東大会、全国高等学校野球選手権埼玉大会のいずれも、決勝戦で城石にも本塁打を打たれるなど1-3で春日部共栄に敗れ、甲子園出場はなし。
1992年、東北福祉大学に進学(同級生に福本亜細亜)。全日本大学野球選手権大会でも準優勝の原動力となり1995年ドラフトの注目選手となる[4]。1995年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団[1]。同期入団には荒木雅博・渡邉博幸・益田大介らがいる。益田とは後に大阪近鉄でも共にプレーしている。
中日時代
プロ1年目の1996年シーズンは開幕二軍スタート[4]、7月に一軍に昇格[4]、7月26日の対ヤクルト戦でプロ初登板し、2日後の同カードでプロ初勝利。8月2日の対巨人戦でプロ初先発し完封勝利。10月1日の対広島戦で初の無四球完投勝利[4]、監督の星野仙一から「アイツはようやっとるよ」と言われた[4]。10月6日のナゴヤ球場最後の公式戦となった対巨人戦でも先発する。最終的に、この年はオールスター明けのシーズン後半だけで7勝。
翌1997年シーズンから2年連続で2桁勝利を記録した。しかし、1999年シーズンは2勝に終わり、同年チームの日本シリーズで登板機会はなかった。シーズン終了後、小池秀郎・佐野重樹・善村一仁との3対3の交換トレードで古池拓一・東瀬耕太郎と共に大阪近鉄バファローズへ移籍。
近鉄時代
移籍初年度の2000年シーズンは開幕直後はリリーフスタートだったが直ぐに先発ローテーションの再編もあり、初先発となった4月13日の対日本ハム3回戦では7回1失点で移籍後初勝利を記録。そのままローテーションの一角を担いそうであったが不調で2ヶ月登録抹消、後半戦の8月に復帰したが復帰前から通算4連敗を記録。復帰後は打線の援護が全く無く(3試合連続完封負け)、8月19日の対オリックス20回戦で移籍後完封勝利で自身の連敗を止める。9月には3勝1敗と自身の好調と打線と噛み合い出し、通算では7勝9敗の成績となった。
翌2001年シーズンは自身初の開幕投手を務めものの、開幕戦では初回にいきなり5失点を喫する等、3被本塁打6失点の大乱調で2回途中で降板した。しかし、この試合で味方打線の猛反撃で乱打戦の末にチームは白星をあげたように、チームは打線の奮起で勝利をあげる試合が多く、結果的にパ・リーグ優勝を果たした。門倉自身は先発ローテーションの一角を担い、チーム3位の8勝5敗の成績を収めた。イニング数もチーム2位(右腕ではトップ)で奪三振数もトップだったものの、防御率は6.49、被本塁打はリーグワーストの27本とチームの投壊に足並みを揃えてしまう内容で、同年の日本シリーズではまたも登板機会が得られなかった。
2002年シーズンは自身初の未勝利に終わるなど不振に終わったが、2003年シーズンは一時期好調で6勝をあげて持ち直した。しかし怪我や不調があったものの近鉄在籍中一度も規定投球回数にはクリアできず首脳陣の信頼を勝ち取りきれなかった。同年シーズンオフ(10月17日)には福盛和男・矢野英司との2対2の交換トレードで宇高伸次と共に横浜ベイスターズへ移籍することが発表された[5]。このトレードは先発投手の強化を図っていた横浜と、右投げの中継ぎ投手を補強しようとしていた近鉄の思惑が一致したことによるものだった[5]。
門倉本人は2011年に「力対力で、やや大雑把なパ(・リーグ)は僕には合っていた気がする」と回顧している[4]。
横浜時代
2004年6月23日の対ヤクルトスワローズ戦で移籍後初勝利。同時にプロ入り初本塁打を放っている。しかし先発投手としては1勝4敗で結果は出なかった。後半戦から中継ぎに回っていたが8月にストッパーの佐々木主浩が離脱したため抑え投手も経験[4]。同点の場面でのリリーフ登板で3敗したが、セーブ機会の登板での救援失敗による敗戦は一度だけだった。
2005年8月20日の対中日戦で勝利投手となり、史上4人目の「全球団勝利」を達成(ただし、達成時点に現存していた全球団のことであり、自身が在籍した近鉄からは勝利を挙げていない)。この年監督に就任した牛島和彦から「10センチ足を高く上げてみろ。」言われたことで上手く間ができ[4]7年ぶりに規定投球回数をクリアし自己最多となる11勝を挙げ、最終戦に中2日で登板させる牛島の計らいもあり同僚の三浦大輔と同数でリーグ最多の177奪三振を記録して最多奪三振のタイトルを獲得した。
2006年シーズンは、前年に比べると不安定な投球で防御率4.84、不調のため一時は中継ぎで調整するなど、満足のいく内容ではなかったものの、牛島が辛抱強く先発で起用し、前年に続き規定投球回数に到達し10勝を挙げ2年連続2桁勝利を記録。投球内容は今ひとつの年であったが、先発の一角としての2桁勝利、チーム最多勝、何よりフリーエージェント (FA) 権の行使を理由として複数年契約と年俸の微増を主張。しかし、球団側は条件を挙げることに応じず、12月2日までには門倉との残留交渉を打ち切り、「せいぜいあと2年で終わる投手。10勝しても10敗するピッチャーはいらない。誰か(門倉の)代わりに1人新しく獲ればいい[注 1]」[7]などと強硬な態度で突き放した[3]。門倉自身は横浜球団に対しては愛着・感謝を抱いてはいたものの、思わぬ低評価には強い不満を抱いており[注 2][3]、同月9日に埼玉県飯能市で開かれた少年野球教室では参加した子供たちに対し、冗談混じりながら「(プロに入るにしても)横浜はやめとけよ」と発言していた[8]。
門倉によると実際「メジャー契約」と2、3球団が声をかけてくれて、クリーブランド・インディアンスとは契約寸前までいったという[3]。そんな時、巨人の球団代表の清武英利(当時)から「2年連続2ケタ勝てる投手はそうはいない。メジャー? 海外に出すのはもったいない。日本でやってくれ。ジャイアンツに来てくれ!」、するとその日の夜に原辰徳監督から電話で「門倉君、ぜひ我が軍の力になってくれ!」とその場で「はい」と返事をし、条件の細部を詰めるだけだったインディアンスには代理人を通じ、「申し訳ありません」と断りを入れ、巨人入りが決まったという[3]。巨人との入団交渉に臨み、2年契約総額2億円プラス出来高払いの提示を受け、「すごく高い評価をしてくれた。気持ちはほとんど固まっている。心は一つです」と話し、この時点で巨人への移籍が事実上決まった。
12月11日、巨人への入団が正式に決定。「来季開幕カードの横浜3連戦で投げたい」と意気込んだ。なお、この移籍に伴う人的補償で工藤公康が横浜へ移籍。
巨人時代
2007年シーズンは、本人の「来季開幕カードの横浜3連戦で投げたい」との希望通り開幕第2戦に先発し、横浜ファンからブーイングを浴びながらも7回まで無失点と好投するが援護に恵まれず最終的に8回に古木克明に決勝本塁打を打たれ敗戦投手となった。その後も先発登板するが勝利できず、5月1日に二軍へ降格。8月1日に一軍へ再昇格すると7日の阪神戦で6回1失点の好投でようやく初勝利しヒーローインタビューでは涙を流した。しかし、14日の広島戦では打線の大量援護があったが5回に逆転されてしまい4回0/3を7失点でKOされて敗戦投手となり、翌日二軍へ降格。9月17日に一軍再昇格後はリリーフとなったが、9月18日の阪神タイガースとの天王山といえる試合で敗戦投手となった。この年は12試合で1勝5敗、防御率5.97と期待を裏切った。クライマックスシリーズでは中継ぎ投手として2試合に登板、自身のポストシーズン初出場となった。
2008年シーズンの開幕は二軍で迎え、4月下旬にリリーフ投手として一軍へ昇格。11試合に登板し2ホールドを記録する。しかし最終回に3度登板し3度とも失点、そのうち2回は同点の場面で登板し、2敗を記録した。5月17日の対広島東洋カープ戦の延長10回、栗原健太に決勝本塁打を打たれ敗戦投手となり二軍へ降格。6月以降は二軍の先発投手として登板したがその後の一軍昇格はなかった。シーズンでは11試合の登板で6年ぶりに未勝利に終わった。そしてリーグ優勝の胴上げの輪には加わったがクライマックスシリーズでの登板はなく、日本シリーズの出場資格者にも選出されなかった。シーズン終了後、巨人が減額制限の25%を超える大幅減の金額を提示し契約更改交渉が決裂。本人が出場機会を求めたこともあり、自由契約となる。結局巨人では2年間でわずか1勝だった。
同年12月23日に同じく巨人から自由契約となった野口茂樹とともにシカゴ・カブスのトライアウトを受けた。
カブス傘下時代
2009年1月20日、トライアウトに合格し、シカゴ・カブスとマイナー契約を結んだことが発表され、春季キャンプの招待選手にも選ばれた。オープン戦では6試合で3失点と好投を見せるも、3月18日にマイナー行きを通告される。開幕直前の4月2日にはカブスから戦力外通告を受けた。
韓国時代
同年4月14日、解雇されたマイク・ジョンソン[9]の代役の外国人選手として、韓国野球委員会(KBO)のSKワイバーンズと契約したことが発表された。4月18日の対ハンファ・イーグルス戦で、2番手として初登板。その後、先発ローテーションの一角として28試合に登板し、8勝を挙げた。ポストシーズンでの好投もあり、再契約した。日本シリーズでの登板はない門倉は、起亜との韓国シリーズ第1戦、第5戦に先発登板し、第7戦でもリリーフ登板したが、勝利投手にはなれなかった。
2010年3月27日のハンファ戦で、近鉄時代の2001年以来9年ぶりとなる開幕投手として登板し、7回を8安打2失点に抑え勝利を挙げる。5月4日の対ネクセン戦で好投し、無傷の開幕7連勝。チーム16連勝の立役者となった。7月17日の対起亜戦で10勝目を挙げた。同年は日本プロ野球時代を通しても自己最多となる14勝(防御率は3位)を記録し、SKの公式戦優勝に貢献した[10]。韓国シリーズ優勝後は11月5日の韓国・台湾クラブチャンピオンシップ第2戦で登板し7回無失点で勝利投手になったが、11月13日の日韓クラブチャンピオンシップでは3回途中3失点で降板し敗戦投手になった。その後日本国内の病院で診察した結果、以前より傷めていた膝の手術が避けられないとされたため、球団側は再契約しないことを決定し、12月19日に退団となった。
2011年1月25日、故障により契約破棄となった金村暁の代役として、前年より中日時代のチームメイトだった落合英二が投手コーチを務める三星ライオンズと契約を結んだ。同年5月18日、大邱市民運動場野球場でのネクセン・ヒーローズ戦で完封勝利を収め、日韓プロ通算100勝を達成した。だが6月以降急激に成績を落とし、7月17日には二軍へ降格すると、7月21日にウェイバー公示され退団となった。
伊達聖ヶ丘病院硬式野球部時代
2012年1月、日本プロ野球復帰を目指し東北楽天ゴールデンイーグルスのテストを受験したが不合格だった[11]。2月には日本ハムの春季キャンプに参加し入団テストを受けたが、またも不合格となった[12]。同年4月、北海道伊達市のクラブチーム・伊達聖ヶ丘病院硬式野球部に入団し、北海道地区予選から都市対抗野球大会出場を目指すことにした[13]。同年5月25日、岩見沢市営野球場で行われた都市対抗野球北海道1次予選1回戦・小樽野球協会戦で先発し、7回参考ながら完全試合を達成した。その後の試合で連敗し北海道地区予選敗退となったものの、門倉本人はJR北海道の補強選手として都市対抗野球に出場することになった。7月15日、東京ドームでの都市対抗野球1回戦・トヨタ戦で、JR北海道の3番手として7回裏から登板したが、2-2の同点の場面で坂田篤彦に決勝2ランを打たれ敗戦投手となった。
2012年11月21日、ファイターズスタジアム(千葉県鎌ヶ谷市)での2012年第2回プロ野球合同トライアウトに出場した。しかしオファーがなく[14]、12月末現役を引退する意思を固めたと報じられ、翌2013年1月初め、現役引退が正式に発表された。同年1月6日には埼玉県飯能市の聖望学園高等学校野球部グラウンドにて、同校OB選手同士により引退試合を行った。
引退後
2013年より、2011年に在籍していた三星ライオンズで投手インストラクターを務めることになった。3月末の公式戦開幕後は、一軍の試合にもベンチ入りしていることもあった。リック・バンデンハークを指導し制球難の原因だったインステップを矯正し、サムスン2年間で通算20勝13敗、メジャー通算の与四球率は4・70だったが与四球率は2・82と大きく改善した[15]。2015年より三星ライオンズの一軍ブルペンコーチとなった。韓国プロ野球に在籍していた外国人選手が一軍コーチに就任したのは初の事例だったが、同年限りで退団。2016年からはTOKYO MXの副音声ゲスト解説など解説者としても活動し、日本各地での野球教室に参加している。2017年からは関西テレビ・横浜DeNAのOBとしてTBSチャンネル(いずれも本数契約)にも解説者として出演。
2019年シーズンより中日ドラゴンズの二軍投手コーチとして現場復帰[16]。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2015年2月) |
アゴの長い顔が特徴で、ニックネームは「アゴ倉」「モアイ」、近鉄時代にはチームメイトから「ショベルカー」と呼ばれ、「アゴの長さでは現役一」を自称。アゴに関するエピソードが多数ある。
アントニオ猪木のようにアゴが長いことから、テーマソングを「炎のファイター」にし、お立ち台で猪木の物真似で「1!2!3!ダァ~!」」をしていた。2010年の韓国オールスター戦に出場した際に、アゴが特徴の他チームの選手2人と並んで「アゴ三兄弟」として多くのフラッシュを浴びた。さらにはかつての中日時代のチームメイトで現在も親交がある三星ライオンズ監督(当時)の宣銅烈から「アゴ、まだ若いなあ」と日本語で声を掛けられた。韓国では「亜蔵」というニックネームがつけられている。
2008年から埼玉県八潮市で地元小学生チームによる「門倉健杯争奪少年野球大会」を主催。大会開催に併せて自ら投球を披露するなど、少年野球や選手の育成に寄与している。
2021年1月、Yahoo!ニュース等の報道において、神奈川県伊勢原市で11年間にわたって70歳代の男性が「愛犬虐待」と疑われる行為を続け、余りの惨状に近隣住民がその状況を撮影し、動物愛護団体へ画像を提出。昨2020年12月に動物愛護推進員が男性宅を訪問。その推進員と共に一般社団法人「エシカルK」のスタッフは、男性の「日常的な犬の虐待は完全なでっち上げ。今迄に1回しか殴ってない」との回答に大きな疑問を抱いていた。同団体の代表は、「大の動物好き」と公言する門倉本人とその妻であった。結果門倉らの説得により、ようやく男性は虐待を続けた飼い犬の所有権放棄の書類に渋々と署名。現在その保護された犬は「ポン太」と名付けられて、門倉家で幸せな毎日を暮らしているという[17][18]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | 中日 | 14 | 11 | 3 | 1 | 1 | 7 | 3 | 0 | -- | .700 | 302 | 72.1 | 63 | 6 | 30 | 1 | 0 | 65 | 3 | 0 | 27 | 25 | 3.11 | 1.29 |
1997 | 34 | 26 | 2 | 0 | 0 | 10 | 12 | 0 | -- | .455 | 747 | 160.0 | 173 | 13 | 96 | 4 | 10 | 143 | 4 | 1 | 95 | 84 | 4.73 | 1.68 | |
1998 | 26 | 25 | 3 | 2 | 0 | 10 | 9 | 0 | -- | .526 | 651 | 153.2 | 133 | 10 | 66 | 0 | 9 | 115 | 9 | 0 | 60 | 58 | 3.40 | 1.30 | |
1999 | 15 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 0 | -- | .333 | 227 | 49.0 | 61 | 7 | 18 | 2 | 2 | 38 | 3 | 0 | 33 | 31 | 5.69 | 1.61 | |
2000 | 近鉄 | 23 | 18 | 4 | 1 | 0 | 7 | 9 | 0 | -- | .438 | 501 | 117.1 | 108 | 13 | 46 | 0 | 4 | 109 | 2 | 0 | 54 | 51 | 3.91 | 1.31 |
2001 | 32 | 21 | 0 | 0 | 0 | 8 | 5 | 0 | -- | .615 | 552 | 123.1 | 136 | 27 | 51 | 1 | 0 | 122 | 4 | 0 | 92 | 89 | 6.49 | 1.52 | |
2002 | 16 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 124 | 29.1 | 25 | 4 | 12 | 3 | 0 | 32 | 0 | 0 | 12 | 12 | 3.68 | 1.26 | |
2003 | 20 | 16 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 0 | -- | .600 | 432 | 98.1 | 102 | 12 | 44 | 3 | 5 | 103 | 5 | 0 | 47 | 46 | 4.21 | 1.48 | |
2004 | 横浜 | 42 | 7 | 0 | 0 | 0 | 4 | 8 | 10 | -- | .333 | 336 | 76.1 | 84 | 16 | 26 | 3 | 3 | 86 | 7 | 0 | 42 | 39 | 4.60 | 1.44 |
2005 | 29 | 27 | 4 | 1 | 1 | 11 | 8 | 0 | 0 | .579 | 832 | 197.2 | 175 | 19 | 76 | 1 | 6 | 177 | 6 | 0 | 80 | 74 | 3.37 | 1.27 | |
2006 | 28 | 25 | 2 | 0 | 0 | 10 | 9 | 0 | 0 | .526 | 691 | 154.1 | 187 | 19 | 51 | 0 | 3 | 114 | 1 | 0 | 90 | 83 | 4.84 | 1.54 | |
2007 | 巨人 | 12 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | .167 | 144 | 31.2 | 36 | 7 | 14 | 2 | 0 | 26 | 2 | 1 | 21 | 21 | 5.97 | 1.58 |
2008 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 2 | .000 | 56 | 12.2 | 13 | 2 | 6 | 0 | 0 | 16 | 0 | 0 | 5 | 5 | 3.55 | 1.50 | |
2009 | SK | 28 | 23 | 0 | 0 | 0 | 8 | 4 | 0 | 1 | .667 | 564 | 126.0 | 141 | 19 | 53 | 0 | 7 | 98 | 2 | 0 | 78 | 70 | 5.00 | 1.54 |
2010 | 30 | 27 | 0 | 0 | 0 | 14 | 7 | 0 | 0 | .667 | 647 | 153.2 | 146 | 14 | 52 | 2 | 6 | 143 | 11 | 0 | 65 | 55 | 3.22 | 1.29 | |
2011 | 三星 | 16 | 16 | 1 | 1 | 0 | 5 | 6 | 0 | 0 | .455 | 376 | 86.1 | 92 | 9 | 31 | 0 | 5 | 62 | 5 | 0 | 55 | 39 | 4.07 | 1.42 |
NPB:13年 | 302 | 190 | 18 | 5 | 2 | 76 | 82 | 10 | 2 | .481 | 5595 | 1276.0 | 1296 | 155 | 536 | 20 | 42 | 1146 | 46 | 2 | 658 | 618 | 4.36 | 1.44 | |
KBO:3年 | 74 | 66 | 1 | 1 | 0 | 27 | 17 | 0 | 1 | .614 | 1587 | 366.0 | 379 | 42 | 136 | 2 | 18 | 303 | 18 | 0 | 198 | 164 | 4.03 | 1.41 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
- 最多奪三振:1回(2005年)
表彰
- NPB
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2001年5月)
- KBO
- 月間MVP:1回 (2010年4月)
- その他
- 元気な入間・生き生き功労賞 (第5号・2006年1月26日) ※史上4人目の全球団勝利の功績から
記録
- NPB投手記録
- 初登板:1996年7月26日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、5回裏に3番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、5回裏にヘンスリー・ミューレンから
- 初勝利:1996年7月28日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、5回裏に2番手で救援登板、2回無失点
- 初先発・初完投勝利・初完封勝利:1996年8月2日、対読売ジャイアンツ14回戦(ナゴヤ球場)
- 初セーブ:2004年8月15日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、9回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初ホールド:2008年4月25日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に3番手で救援登板、1回無失点
- NPB節目の記録
- 1000投球回:2005年8月9日、対読売ジャイアンツ13回戦(フルキャストスタジアム宮城)、5回裏3死目に二岡智宏を空振り三振で達成 ※史上303人目
- 1000奪三振:2006年4月12日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦(横浜スタジアム)、1回表に青木宣親から空振り三振 ※史上118人目
- NPB打撃記録
- 初安打:1996年8月8日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、4回表に高橋建から右前安打
- 初打点:1997年5月3日、対ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、4回表に吉井理人から右前適時打
- 初本塁打:2004年6月23日、対ヤクルトスワローズ12回戦(明治神宮野球場)、4回表に藤井秀悟から中越ソロ
- KBO
- KBOオールスターゲーム出場:1回(2010年)
背番号
- 25(1996年 - 1999年)
- 23(2000年 - 2002年)
- 17(2003年)
- 24(2004年 - 2006年)
- 27(2007年 - 2008年)
- 54(2009年 - 2010年)
- 16(2011年)
- 88(2013年 - 2015年)
- 87(2019年 - )
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、13頁。ISBN 978-4-583-61526-4。
- ^ “中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース ★来季コーチングスタッフのお知らせ”. dragons.jp. 2018年10月29日閲覧。
- ^ a b c d e f 流れ流れて日韓米7球団、メジャー球団との契約直前 巨人原監督からの電話でFA決断、2017年5月16日、日刊ゲンダイ
- ^ a b c d e f g h i 『週刊プロ野球データファイル』2011年30号、ベースボール・マガジン社、P25-P26
- ^ a b 「近鉄、横浜トレード発表/門倉、福盛ら」『四国新聞』四国新聞社、2003年10月17日。オリジナルの2020年7月26日時点におけるアーカイブ。2020年7月26日閲覧。
- ^ 「横浜多村とソフトB寺原が電撃トレード」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2006年12月5日。オリジナルの2006年12月16日時点におけるアーカイブ。2006年12月16日閲覧。
- ^ 「横浜 門倉との残留交渉打ち切り」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2006年12月3日。オリジナルの2006年12月9日時点におけるアーカイブ。2006年12月9日閲覧。
- ^ 松岡祐司「門倉、心は巨人一色 地元・埼玉で少年野球教室」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年12月10日。オリジナルの2006年12月13日時点におけるアーカイブ。2006年12月13日閲覧。
- ^ 近鉄時代のチームメイトでもある。
- ^ “韓国プロ野球で蘇った門倉健、15年目の絶頂”. Number Web (2010年11月12日). 2012年4月17日閲覧。
- ^ “日本ハムが門倉を入団テスト、楽天は不合格”. サンケイスポーツ (2012年2月6日). 2012年2月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “門倉は不合格=プロ野球・日本ハム”. 時事通信 (2012年2月9日). 2012年2月9日閲覧。
- ^ “元巨人の門倉が北海道のクラブチーム入り”. サンケイスポーツ (2012年4月17日). 2012年4月17日閲覧。
- ^ 元NPB所属のアマ野球選手はチームに所属して2シーズンプレーしていなければプロ復帰できないため、そもそもこの時点で門倉にはNPB復帰の資格自体がなかった。このため、何を意図してこれに参加したのかは不明である。
- ^ ソフトバンクのバンデンハークが初登板先発で初勝利 6イニング2失点中日スポーツ、2015年6月15日
- ^ [1]
- ^ 中日コーチ門倉健が保護 飼い犬を角材で「11年間虐待疑惑」画像FAIDAY DIGITAL(2021年1月12日掲載)
- ^ ポン太門倉健official blog byAmeba(2021年1月14日更新)
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 門倉健 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 門倉健 オフィシャルブログ HAPPY HOLIDAY - Ameba Blog