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「東映洋画」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「かつて存在した日本の映画配給会社」「東映の子会社」とあるが独立した法人なのか疑問
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== 概説 ==
== 概説 ==
1972年、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長により外国映画(以下、洋画)輸入配給業を事業とする「東映洋画株式会社」として設立された{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}<ref name="読売197204_05"/><ref name="キネ旬19720601"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=182–184}}{{Sfn|成龍讃歌|2017|pp=104-111}}<ref name="時報197303">{{Cite journal|和書 |title = 岡田茂社長は語る 東映グループの前進と飛躍 良き指導者というものは状況の変化に即応する戦術をもつものと思う 聞く人・北浦馨/前進する東映映画の未来 エネルギッシュな活動とチームワークの勝利 池田静雄(東映取締役・宣伝部長)・片山清(東映取締役・企画製作部長)・畑種治郎(東映・営業部長)・戸倉繁(東映・興行部長)・鈴木常承(東映・洋画部長) 聞く人・北浦馨 |journal = 映画時報 |issue = 1973年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-6、11-12頁 }}</ref><ref name="ポスト19720505">{{Cite journal |和書 |title = ニュースメーカーズ 『やっぱりエロ!! 脱ヤクザ東映商法』 |journal = [[週刊ポスト]] |issue = 1972年5月5日号 |publisher = [[小学館]] |pages = 31 }}</ref>。同年1月、岡田は東映社長に就任後初の新年度経営方針として、経営第一主義の確立、あらゆる収益機会の意欲的開発を発表し{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}、儲かるビジネスがあれば参入していく方針を掲げた<ref name="財界19930629">{{Cite journal|和書 |author = 矢田正人 |title = 財界レポート映画界の大御所・岡田茂がバトンタッチ 東映新社長・高岩淡は作家・檀一雄の実弟 |journal = [[財界 (雑誌)|財界]] |issue = 1993年6月29日号 |publisher = 財界研究所 |pages = 46 - 49 }}</ref>。日本映画界が斜陽産業の[[代名詞]]のようになっていた時代<ref name="財界19930629"/>、東映生き残りを賭け<ref name="財界19930629"/>、本格化する東映の多角経営化の一つとして<ref name="沿革"/><ref name="財界19930629"/>{{Sfn|映画界のドン|2012|pp=17-36}}{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=52-53}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 竹入栄二郎 |title = 映画40年全記録 |chapter = 映画サヴァイヴァル作戦|journal = キネマ旬報増刊 |volume = 1986年2月13日号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 15 }}{{Cite journal | 和書 | author = | title = 観客の目『トルコ風呂』も口に出す躍進する東映グループ | journal = [[週刊文春]] | volume = 1972年3月27日号 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 24 }}{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊新潮]] | volume = 1972年6月3日号| title = 東映にできた『何でもやる課』| publisher = [[新潮社]] | page = 13 }}{{Cite journal |和書 |journal = [[週刊ポスト]] | volume = 1972年9月22日号 | title =News Makers 焼き肉屋まで手を伸ばす"東映商法"| publisher = [[小学館]] | page = 32}}{{Cite journal|和書 |author = |title = 儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る |journal = 映画時報 |issue = 1972年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出 |journal = 映画時報 |issue = 1972年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 7 - 9 }}{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] | volume = 1973年4月号| title = 映画街| publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | pages = 86 }}{{Cite journal|和書 |title = 森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂 |journal = [[月刊レジャー産業資料]] |issue = 1974年10月号 |publisher = エコセン |pages = 160 - 166 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 首脳陣初のことば 岡田社長今年度の経営方針を語る 経営三原則で第三期黄金時代へ始動 |journal = 映画時報 |issue = 1973年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12 - 13 }}</ref>、東映本社営業部から分派新設され、東映洋画は設立された{{Sfn|映画界のドン|201|pp=17-36}}{{Sfn|秘宝08|2011|p=61}}。東映の洋画配給はこの時が全くの初めてではなく、1950年代から1960年代に日本映画を3万ドル以上輸出した映画業者に、その見返りとして洋画を一本輸入を認める輸出ボーナスがあり{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}、東映も数本輸入したことがあった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。また洋画の買い付け配給ではないが、元々東映本社地下の[[丸の内TOEI#丸の内TOEI(2)|旧丸の内東映パラス]]というのは、[[新宿TOKYU MILANO#新宿ミラノ2(旧:新宿東急)|新宿東急]]と並んで、[[都内|東京都内]]で二館だけの[[ポルノ映画#世界のポルノ映画|セックス洋画]]の[[ロードショー (映画用語)|ロードショー]]劇場だった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}<ref name="報知19691112">{{Cite news |title = ウラ話うら話 セックス映画はまだまだ続く "大作"で巻き返しへ |date = 1969年11月12日 |newspaper = [[スポーツ報知|報知新聞]] |publisher = [[報知新聞社]] |page = 11 }}</ref>。[[1965年]]の洋画の興行網であるSTチェーンの本発足には松竹、[[東急レクリエーション]](以下、東急レク)と共に東映も参加し、STチェーンが配給する洋画を上映していた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。ただ本格的な輸入配給は初めてとなる{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。全国の東映パラス系14館を基盤に一般館を入れて20館前後として洋画部の配給がスタートした{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。以降、東映が新たな劇場を建築する際は、邦画系と洋画系の二つを含むものとし、他方、既存の劇場のうち、[[キャパシティ|キャパ]]の大きな直営館については、改築して内部を邦画系と洋画系の二館に分割した{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}{{Sfn|クロニクル1|1992|p=231}}。これらの措置により、東映の直営館(準直営館を含む)は、1979年7月に過去最多の102館になった(邦画系63館、洋画系39館){{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。
1972年、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長により外国映画(以下、洋画)輸入配給業を事業とする{{要検証範囲|「東映洋画株式会社」として設立された|date=2020年10月}}{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}<ref name="読売197204_05"/><ref name="キネ旬19720601"/>{{Sfn|教科書|2016|pp=182–184}}{{Sfn|成龍讃歌|2017|pp=104-111}}<ref name="時報197303">{{Cite journal|和書 |title = 岡田茂社長は語る 東映グループの前進と飛躍 良き指導者というものは状況の変化に即応する戦術をもつものと思う 聞く人・北浦馨/前進する東映映画の未来 エネルギッシュな活動とチームワークの勝利 池田静雄(東映取締役・宣伝部長)・片山清(東映取締役・企画製作部長)・畑種治郎(東映・営業部長)・戸倉繁(東映・興行部長)・鈴木常承(東映・洋画部長) 聞く人・北浦馨 |journal = 映画時報 |issue = 1973年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-6、11-12頁 }}</ref><ref name="ポスト19720505">{{Cite journal |和書 |title = ニュースメーカーズ 『やっぱりエロ!! 脱ヤクザ東映商法』 |journal = [[週刊ポスト]] |issue = 1972年5月5日号 |publisher = [[小学館]] |pages = 31 }}</ref>。同年1月、岡田は東映社長に就任後初の新年度経営方針として、経営第一主義の確立、あらゆる収益機会の意欲的開発を発表し{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}、儲かるビジネスがあれば参入していく方針を掲げた<ref name="財界19930629">{{Cite journal|和書 |author = 矢田正人 |title = 財界レポート映画界の大御所・岡田茂がバトンタッチ 東映新社長・高岩淡は作家・檀一雄の実弟 |journal = [[財界 (雑誌)|財界]] |issue = 1993年6月29日号 |publisher = 財界研究所 |pages = 46 - 49 }}</ref>。日本映画界が斜陽産業の[[代名詞]]のようになっていた時代<ref name="財界19930629"/>、東映生き残りを賭け<ref name="財界19930629"/>、本格化する東映の多角経営化の一つとして<ref name="沿革"/><ref name="財界19930629"/>{{Sfn|映画界のドン|2012|pp=17-36}}{{Sfn|クロニクル東映2|1992|pp=52-53}}<ref>{{Cite journal |和書 |author = 竹入栄二郎 |title = 映画40年全記録 |chapter = 映画サヴァイヴァル作戦|journal = キネマ旬報増刊 |volume = 1986年2月13日号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 15 }}{{Cite journal | 和書 | author = | title = 観客の目『トルコ風呂』も口に出す躍進する東映グループ | journal = [[週刊文春]] | volume = 1972年3月27日号 |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 24 }}{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊新潮]] | volume = 1972年6月3日号| title = 東映にできた『何でもやる課』| publisher = [[新潮社]] | page = 13 }}{{Cite journal |和書 |journal = [[週刊ポスト]] | volume = 1972年9月22日号 | title =News Makers 焼き肉屋まで手を伸ばす"東映商法"| publisher = [[小学館]] | page = 32}}{{Cite journal|和書 |author = |title = 儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る |journal = 映画時報 |issue = 1972年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出 |journal = 映画時報 |issue = 1972年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 7 - 9 }}{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] | volume = 1973年4月号| title = 映画街| publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | pages = 86 }}{{Cite journal|和書 |title = 森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂 |journal = [[月刊レジャー産業資料]] |issue = 1974年10月号 |publisher = エコセン |pages = 160 - 166 }}{{Cite journal|和書 |author = |title = 首脳陣初のことば 岡田社長今年度の経営方針を語る 経営三原則で第三期黄金時代へ始動 |journal = 映画時報 |issue = 1973年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12 - 13 }}</ref>、東映本社営業部から分派新設され、東映洋画は設立された{{Sfn|映画界のドン|201|pp=17-36}}{{Sfn|秘宝08|2011|p=61}}。東映の洋画配給はこの時が全くの初めてではなく、1950年代から1960年代に日本映画を3万ドル以上輸出した映画業者に、その見返りとして洋画を一本輸入を認める輸出ボーナスがあり{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}、東映も数本輸入したことがあった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。また洋画の買い付け配給ではないが、元々東映本社地下の[[丸の内TOEI#丸の内TOEI(2)|旧丸の内東映パラス]]というのは、[[新宿TOKYU MILANO#新宿ミラノ2(旧:新宿東急)|新宿東急]]と並んで、[[都内|東京都内]]で二館だけの[[ポルノ映画#世界のポルノ映画|セックス洋画]]の[[ロードショー (映画用語)|ロードショー]]劇場だった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}<ref name="報知19691112">{{Cite news |title = ウラ話うら話 セックス映画はまだまだ続く "大作"で巻き返しへ |date = 1969年11月12日 |newspaper = [[スポーツ報知|報知新聞]] |publisher = [[報知新聞社]] |page = 11 }}</ref>。[[1965年]]の洋画の興行網であるSTチェーンの本発足には松竹、[[東急レクリエーション]](以下、東急レク)と共に東映も参加し、STチェーンが配給する洋画を上映していた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。ただ本格的な輸入配給は初めてとなる{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。全国の東映パラス系14館を基盤に一般館を入れて20館前後として洋画部の配給がスタートした{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。以降、東映が新たな劇場を建築する際は、邦画系と洋画系の二つを含むものとし、他方、既存の劇場のうち、[[キャパシティ|キャパ]]の大きな直営館については、改築して内部を邦画系と洋画系の二館に分割した{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}{{Sfn|クロニクル1|1992|p=231}}。これらの措置により、東映の直営館(準直営館を含む)は、1979年7月に過去最多の102館になった(邦画系63館、洋画系39館){{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=201-205}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==

2020年10月13日 (火) 10:54時点における版

東映洋画(とうえいようが)は、かつて存在した日本映画配給会社[要検証]東映子会社[要検証]、主に洋画配給を行っていた[1][2][3][4][5][6]本社は[要検証]東京銀座東映本社(東映会館)内に置かれた[注釈 1]。正式な発足日は1972年5月16日[1]

東宝東宝東和松竹松竹富士と同様の業務を行っていた[7][注釈 2]。また洋画配給と宣伝、洋画系劇場に流す邦画の宣伝も行った[8]

1994年4月、業務が縮小され[2][9]1995年6月1日、映画営業部に吸収され廃止された[10][11]

2011年8月11日、東映が外国映画配給の新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)発足会見が行い、1987年公開の『七福星』以来、24年ぶりに洋画配給を行うと報道された[3]

1980年代に配下に設立された「東映ユニバースフィルム」とその後改名された「東映クラシックフィルム」についても合わせて説明する。

概説

1972年、岡田茂東映社長により外国映画(以下、洋画)輸入配給業を事業とする「東映洋画株式会社」として設立された[要検証][2][5][6][7][12][13][14]。同年1月、岡田は東映社長に就任後初の新年度経営方針として、経営第一主義の確立、あらゆる収益機会の意欲的開発を発表し[2]、儲かるビジネスがあれば参入していく方針を掲げた[15]。日本映画界が斜陽産業の代名詞のようになっていた時代[15]、東映生き残りを賭け[15]、本格化する東映の多角経営化の一つとして[4][15][16][17][18]、東映本社営業部から分派新設され、東映洋画は設立された[19][20]。東映の洋画配給はこの時が全くの初めてではなく、1950年代から1960年代に日本映画を3万ドル以上輸出した映画業者に、その見返りとして洋画を一本輸入を認める輸出ボーナスがあり[2]、東映も数本輸入したことがあった[2]。また洋画の買い付け配給ではないが、元々東映本社地下の旧丸の内東映パラスというのは、新宿東急と並んで、東京都内で二館だけのセックス洋画ロードショー劇場だった[2][21]1965年の洋画の興行網であるSTチェーンの本発足には松竹、東急レクリエーション(以下、東急レク)と共に東映も参加し、STチェーンが配給する洋画を上映していた[2]。ただ本格的な輸入配給は初めてとなる[2]。全国の東映パラス系14館を基盤に一般館を入れて20館前後として洋画部の配給がスタートした[2]。以降、東映が新たな劇場を建築する際は、邦画系と洋画系の二つを含むものとし、他方、既存の劇場のうち、キャパの大きな直営館については、改築して内部を邦画系と洋画系の二館に分割した[2][22]。これらの措置により、東映の直営館(準直営館を含む)は、1979年7月に過去最多の102館になった(邦画系63館、洋画系39館)[2]

歴史

1970年代

1972年4月19日の発表会見で、岡田は「昨年の映画界の水揚げは、邦画、洋画、ともに140億円。このぶんだと邦画より洋画の方が(利益)率がよくなる。そこでこの傾向をいち早く察知し、松竹・東急レクとも相談して洋画配給に踏み切った。映画本部の中に洋画部を設立し、7月から年間14~5本を目途に配給する方針だ。世界的なポルノ・ブームにのって当面はポルノ作品からのスタートになるが、おいおい大作も輸入する予定。東映がやる以上は、ポルノでも最高の作品を提供する。将来このポルノチェーンを現在の東映映画のマーケットと同程度の組織に作り上げ、洋画も邦画の日本市場の半分を東映でいただく。セールスは独自の機構で行うことになる。とりあえず9本の作品の輸入を決めた」などとぶち上げた[5][6][14][23][24]。また荻昌弘との対談で「大川博前社長から、洋画配給はうっかり手を出すとヤケドするから絶対やるなと言われていたんです。だって邦画なら作品のはじめからタッチしているし、人が作ったものを買って、いざ見てみたらとんでもないものをつかんじゃったなんてことにもなりかねない。私の代になって、別の観点から洋画に手を出すことにしたんです。東映は日本古来のマンジュウしか作ってこなかったけど、国民全体の嗜好が変わってきたんだから、洋菓子にも手を出さざるを得ないということです。この世界は自称プロ気取りが多くてね。顔の商売だから、俺を東映に入れなきゃ洋画なんてとても買い付けできるわけがないって、売り込みが激しかったんですが、わが社は私と鈴木常承洋画部長の二人で、私が選定して、あとは全部鈴木に任せるという方式にしました」などと話した[25]。岡田が洋画配給業務参入を決めたのは、当時洋画の配給収入が急激に伸び[5]、邦画と肩を並べるところまで来ており、1972年には抜かれるのではという予想されたことで[5]、岡田が指をくわえて見ているだけとはあり得ず[5][26][27][28]、現在の邦画同様にブロック・ブッキングを強化して第二の"第二東映"を確立しようと構想した[5]。折からの"洋高邦低現象"で、この後のマーケットのイニシアティブは洋画が持つと判断した[7]。東映は業績不振に苦しむ他社をよそにこの数年間、業界で唯一の黒字を誇ってはいたが[29]東映動画を中心とした労働争議の深刻化や、人件費の増大によりジリ貧の危機に晒されており[29]、儲かることは何でもやらなければ生き残れないという危機感があった[29]。岡田は洋画ポルノで一系統が作れると、洋画ポルノを過大評価していた[5]

1972年の正月興行で東映を含めた邦画が『007 ダイヤモンドは永遠に』や『レッド・サン』などの洋画のアクション物にかなり喰われ[30]、それまで邦画の50%近いシェアを持ち[31]、一人勝ちといわれた[29]東映の岡田もショックを受けていた[30]。また当時、洋画のインディペンデントといわれた東和日本ヘラルド東京第一松竹映配等がメジャーと肩を並べるように伸びてきていた[20][30]。東映の洋画配給進出はそれらに殴り込みをかける形となった[23]。業界の寝わざ師でドライといわれた岡田の発言は業界に大きなショックを与えた[5]。他社ではガッチリしていたバイヤーが東映の進出でタマの値段を吊り上げてくることが危惧され[23]、洋画といってもポルノが主だが、それでも同業の中小業者にとっては死活問題になりかねないと見られた[5]。当時の洋画ポルノは邦画一本の製作費で2、3本買えたため、利潤率が邦画よりはるかによかった[5]。参入当時は既に過当競争気味で、一本当たりの平均配収は2,500万円程度と枠内で利益を出すには難しく、まず原価の安いポルノを手掛け、洋画配給のイロハを学ぼうとした[32]。業界関係者は東映が暴力とエロ映画で映画市場を席捲するようになると、世論がまたうるさくなると懸念した[5]

東映は当時ポルノ映画専門の洋画チェーンを14館持っていたから[14]、これに松竹、東急レク系のSTチェーンと提携を強化し、全国で50館のポルノ・チェーンにしようと構想した[14]。松竹はこの攻勢に備え、松竹映配の中にポルノ洋画の配給を専門に行うグローバル・フィルムを設立した[33]。また1971年11月にロマンポルノを発足させた日活も洋画ポルノを配給すると発表し[34]、洋画ポルノ配給網も戦国時代に突入したと評された[14][29][34]

岡田から実務の責任者に指名された鈴木常承は、東映洋画の設立経緯に関して、「日活を辞めるつもりだった田中鉄男営業担当と黒澤満さんが二人で岡田社長に会いに来て『ロマンポルノ』を東映でやらないですか』と持ち掛け、岡田社長が『やろう』と言い、『鈴木を呼べ』と呼ばれて行ったら、岡田から『黒沢と田中を採用するけどどう思う?』と言われたから、『やるならフリーブッキングの洋画です』と言ったら『じゃあお前がやれ』と言われたから『分かりました』と答えて東映洋画が発足しました」などと証言している[12][35]

第一回配給は当時、性科学映画などと括られていた西ドイツコンスタンチヌフィルムから買い付けた『性医学・幸福へのカルテ』を1972年7月29日丸の内東映パラス新宿東急大阪東映パラス、梅田日活シネマ、三宮国際日活でロードショー公開[7]。同作に『現代ポルノ伝 先天性淫婦』で東映に招聘したサンドラ・ジュリアンの出演映画『サンドラ・ジュリアン 色情狂の女』を付け[7][36]、10月21日からゼネラル館[注釈 3]で上映した[2]。『性医学・幸福へのカルテ』の興収は1,400万[37]。第二弾は『人妻SEX 悶絶』。第三弾は1972年10月21日公開のシャルル・アズナヴール主演の一般映画サスペンス『危険な来訪者』で、13日間で興収512万円という破壊的な大赤字[37][32]。立ち直らせたのはアメリカから3D方式を導入し、立体という利点を生かした初の3Dポルノ『3Dポルノ 淫夢』(1973年2月10日公開)[7][32][38][39]。メガネは肉感料として50円徴収した[38]。立体ポルノという物珍しさもあって興収は1,600万で大ヒットといえた[7][37]。当時世界的に立体ポルノが流行するのではといわれたが[37]、さほど流行らなかった[37]。 発足時は威勢がよかったが、東映では誰も洋画の買い付けをやったことはなく、儲かると思って参入した洋画ポルノであったが、過当競争ですぐに買い付け価格が跳ね上がり、なかなか利益が上がらず[2]。またカトリーヌ・ドヌーヴ主演の不倫ものの秀作『昼顔』の再映などを試みたが、思う程は儲からない状態が続いた[2]。また1972年9月に日活ロマンポルノ猥褻図画公然陳列罪容疑で起訴され[40]、ポルノの配給を社員が嫌がるようになった[2]。しかし洋画配給の後発組としては、興行力が見込まれるメジャー作品のルートに入り込むことは困難だった[2]。洋画メジャー作品の買い付け法は、シノプシスだけ読んで判断し、億単位の価格で買い付けるというハイリスクなもので、会社の一部署が担うにはバクチ性が高すぎた[2]。このため比較的買いやすいヨーロッパの独立系の作品を狙い、また品揃えを豊富にするため『沈黙の世界』や『野生のエルザ』など、再映作品を多く買い付けた。

洋画部が初めて大手チェーンで公開した新作洋画は1974年4月28日に大劇場チェーンミラノ・パンテオン系で公開された『コーザ・ノストラ』であった[2][7][32]。配収1億3000万円を上げ[7]、興行もある程度の成功を収めた[2]

ポルノ解禁国アメリカでも上映禁止騒ぎを起こし、世界各国でもハード版公開不能といわれた『ディープ・スロート』が1974年春に日本に持ち込まれたが[41][42]、日本のいくつかの映画会社が見て、「これはとても無理だ」と東京税関に輸入申請を出さず送り返した[41]。諦めきれない東映洋画は日本国内で再編集することを思い付き[41][43][44]、契約後に殺されたイタリア系マフィア代理人から同作を買い付けるという危険な橋を渡り[42]、輸入検査を申請する前に自主的に一部をカットした上で輸入[41]向井寛に編集を頼んで公開した[7][42]。同作は"日本初のハードコアポルノ公開"と宣伝され当時で3億円の大ヒットを記録[42]、これをきっかけにハードコアポルノが日本でブームになった[45]

スタート時の洋画ポルノ(洋ピン)買い付けから[12][32][46]、一般映画の買い付けを目指し、柱にしようと構想したのがブルース・リーアラン・ドロンであった[25][47]

岡田茂が映連の幹部になり、海外の映画祭や映画見本市など映画外交に行く機会も増え、当時の映連幹部は高齢者大谷隆三のように体の弱い人もおり[48]、元気で押しの強い岡田が団長を務めるケースも多くなり[49]、現地の映画関係者やバイヤーとのビジネス上の付き合いが生まれた[25][50][51][52]。岡田は東映洋画は世界の製作配給業者と本格的なコネが出来たと評価した[19]。またそれまで東映国際部といっても名ばかりで、大した取り引きもなく、出張者の観光案内所と化していた東映国際部が東映洋画の設立で花形部署になり俄然やる気を増した[25]。岡田自ら洋画の買い付けや同時に東映ポルノ千葉真一志穂美悦子らのカラテ映画、『新幹線大爆破』や『恐竜・怪鳥の伝説』、テレビ作品東映アニメなど、東映作品の海外販売に陣頭指揮を執り[51][52][53][54][55][56][57]、大きな成果を挙げた[25][54][55][56][58][59]。1975年頃は東映作品の年間輸出額が業界の50%を占めるようになった[25]。1975年6月に公開されたソ連映画『レニングラード攻防戦』は、製作中の1974年秋に岡田が訪ソし、ソ連国家映画委員会副議長(映画省副大臣)や映画輸入公団副総裁と交渉し、直接買い付けたもので[51][60]、この時、ソ連側が東映のカラテ映画を欲しがったことが、共産圏でカラテ映画がヒットした切っ掛けだった[60]。岡田は『レニングラード攻防戦』の買い取りを機に一般映画の獲得に力を入れると発表した[51]。またソ連の国家映画委員会幹部が11月に来日し、岡田の商談を持ち、東映映画をたくさん買い付けたいと話した[60]。『続エマニエル夫人』の配給権を巡り、日本ヘラルド東和と争奪戦を演じたが日本ヘラルドに敗れる(契約は推定100万ドル)[61]。またカンヌ国際映画祭で岡田が『地獄の黙示録』を買おうとしたら日本ヘラルドが相当金を出して落とした[25]

またブルース・リーの『ドラゴンへの道』配給権獲得の経緯は、鈴木常承がブルース・リーの映画はゴールデン・ハーベストと東和は正式に契約を結んでいないとの情報をキャッチし[12]、ゴールデン・ハーベストのレイモンド・チョウが商談で岡田に会いに来日した際、岡田が「一本東映に売れ」と迫り『ドラゴン怒りの鉄拳』を70万ドルで買った[12]。するとスポーツニッポンにすっぱ抜き記事が出て(スポニチに岡田のブレーン・脇田巧彦がいたため)、腰を抜かした川喜多長政が岡田に怒鳴り込んで来たが岡田が追い返し、川喜多がゴールデン・ハーベストに文句を言ったため、これはマズいと判断したレイモンド・チョウが『ドラゴンへの道』の方が内容がいいからと『ドラゴン怒りの鉄拳』を東和に渡し、東映に『ドラゴンへの道』を渡すという段取りをつけたものであった[12][35][51][62][63]。『ドラゴンへの道』は1975年1月に公開され全国的に大ヒットし、東和配給の『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴン危機一発』を上回る8億円の配収をあげた[7][64]。洋画配給の旨味を知った岡田は「4年後を目標に邦画・洋画の二本立て興行を実施する」とラッパを吹いた[20]。この成功でカンフーものやアクションものにも積極的に取り組めるようになり、アラン・ドロン主演映画『ル・ジタン』や『ブーメランのように』、『流されて…』『課外授業』など、個性的な作品を配給した[64][65]。『ル・ジタン』も『ドラゴンへの道』も東和が当然買い付けると見られていたため、東映洋画が買い付けるとは誰も想像できず、この逆転劇は業界関係者を驚かせた[66]。東和は続けて東映に買い付けで負け[66]、「東和」という名前だけでは国際的に知名度が低いと判断し、1975年4月9日の臨時株主総会で「東宝東和」に社名変更を余儀なくされた[66]

またゴールデン・ハーベストのライバルであるショウ・ブラザーズランラン・ショウとは、千葉や志穂美らのカラテ映画の香港東南アジアでの売込みで業務提携を結んだ[50][52][53][54][55][67]ジャッキー・チェン映画の買い付けもこうした香港映画との付き合いがあった上でのことで[12]、1975年、鈴木常承が「香港で酔っ払ったら強くなるという映画が当たってる」という情報を得て、すぐに香港に出向きプリントも観ずに25万ドルで契約した[12]。これが『酔拳』で、東宝東和より一足先に抑え[12]、1979年7月21日『トラック野郎・熱風5000キロ』と併映され、それまで日本で全くの無名だったジャッキー・チェンの人気爆発の切っ掛けを作った[12][68]。当時、香港映画は観客に飽きられ、興行的な信用を失っていた時期だった[69]。日本での知名度はほぼ0だったジャッキー・チェンの売り出しに、名前は「ジャッキー・チェン」がいいか「成龍」がいいかで悩み、響きのいい「ジャッキー・チェン」で売り出すことに決めた[8]。『酔拳』『蛇拳』がほとんど宣伝はしないでも大当たりしたことから[70]、1980年4月19日封切りの『笑拳』に宣伝しなくてもお客が入るだろうと宣伝をしなかったら、ジャッキーファンから「もっと宣伝しろ」と連日の猛抗議が宣伝部に殺到する事態となった[70]。ジャッキー・チェン映画の実績から、東映は1980年代にかけて香港映画との連携を強めた[71]

東映洋画の存在が大きくクローズアップされたのは角川映画との提携だった[72][73]。アラン・ドロン映画がうまくいかなくて洋画の買い付けを控え、劇場が空いていた時期に角川映画や宇宙戦艦ヤマトシリーズなどの委託作品が上手くはまった[35]。東映が角川と提携する切っ掛けについて鈴木常承は「ある日、岡田社長に呼ばれて角川春樹さんを紹介された。岡田社長から『角川社長が今度映画をやりたいそうだから、いろいろ相談に乗ってあげてくれ』と言われ、角川さんから『ぜひ、映画をやりましょう』と言われた。第一回目は原作の関係で東宝さんになったが(『犬神家の一族』)当時角川さんの窓口をやっていた黒井和男さんにその次を頼んでもらい快諾され『人間の証明』から付き合いが始まった」などと述べている[35]。岡田は『月刊創』1977年5月号のインタビューで、ホストの勝田健から「今度、おたくが配給面で提携することになった『人間の証明』は『犬神家の一族』で角川が大ヒットさせたもんだから、それでは、ということで横あいから乗りだしたんじゃないですか?」と言われ「いや、それはちょっと違うんですョ。わたしは文庫本のブームを角川がつくったときに、これはいけるって狙いをつけてたんです。もっと砕いて言えば、その張本人である角川春樹っていう若い経営者を買ったといえるかもしれないな。彼はどことなくスターらしい風格が滲みでていますしね」などと述べている[74]。東映洋画の売り上げは1975年の18億円から、1976年には半分の9億円に下がった時期で[35]、『人間の証明』を配給した1977年からは邦画の依存度が高くなり、以降、角川やオフィスアカデミーなど、外部プロダクションとの関係を深めていく[9][75]。1977年代後半からは角川映画や、宇宙戦艦ヤマトシリーズ銀河鉄道999徳間(宮崎アニメ)などの劇場アニメを配給し、1980年代にかけ一時代を築く[9][76][77][78]。『宇宙戦艦ヤマト』『人間の証明』が配収35億円[77]、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が20億円、『探偵物語』/『時をかける少女』28億円、『里見八犬伝』23億円、『愛情物語』/『メイン・テーマ』18億5,000万円、『Wの悲劇』/『天国にいちばん近い島』15億5,000万円、『風の谷のナウシカ』7億5,000万円、『天空の城ラピュタ』7億円、『魔女の宅急便』22億円、『天と地と』51億円[77]。発足から1993年までの21年間で配収約614億円、利益35億円を上げた[77]。東宝系で公開された『戦国自衛隊』『復活の日』、東映作品の『魔界転生』『誘拐報道』では宣伝のみ担当した[8]

また東映セントラルフィルムと後のセントラル・アーツの設立経緯について岡田茂は「うちの映画事業部の中に、洋画配給部門というものがある。洋画とは名のみで、いま、実際は邦画を配給しているけれども、ここから1つの試みが生まれた。うちは劇場が非常に多く、最盛期には洋画系統の封切直営館が全国で50館ぐらいあった。そういう劇場を埋める、つまり、洋画館にかけるような映画をつくろうじゃないか。こう考えたわけですが、それには今までの様な企画の立て方、作り方じゃ無理だ。それで東映ビデオの中に、セントラル・アーツという製作会社を作った。これが意外に成功して『あぶない刑事』みたいなライトコメディーというか、従来の東映カラーにない作品を生み出したんですね」[76]、「黒澤満を東映ビデオの製作部門の長として抱きかかえ、これを東映セントラルフィルムと組ませた」[79]などと東映洋画と関係があると説明している。

1980年代

勝利への脱出』を富士映画と初めての共同買付け(配給は富士映画、1981年12月12日公開)[80]

洋画配給とは名ばかりで、国内の独立プロの作品を配給、もしくは提携製作に主力をおく間、洋画配給は急速なビデオの普及で大きな打撃を受け[22]、洋画の人気が一服したあと、再び撤収期に入った[22]。本来の業務である洋画配給には目立つものがなくなってきたこともあり[72][81]、このためもう一回洋画配給ではっきりさせようと1981年に配下に「東映インターナショナル」を設立すると内定した[72][81]。洋画大作はロイヤリティーが高騰していたため、当時ブームになっていたミニシアター系向けの小回りのきく作品の買い付けを狙ったが、これも各社にあり前途は多難とみられた[72]。1981年の12月1日付けで、洋画配給部を細分化し、個性的な洋画の輸入配給業務を主業務とする「東映ユニバースフィルム」が発足したため[82][83][84]、「東映インターナショナル」は「東映ユニバースフィルム」に名称変更したものとみられる。設立の趣旨として観客の嗜好の多様化による新しいニーズに対応するため、洋画配給部が大所帯になったための分割等の説明があった[83]。またこの「東映ユニバースフィルム」は、1984年3月1日付けで「東映クラシックフィルム」に名称が変更された[85]

洋画人気が絶頂に達したのは『E.T.』が日本で公開された1983年[22]。岡田茂が1980年1月に東急レク社長に就任し[86][87][88]、東映社長と兼任するようになったことで、STチェーン内での岡田の影響力が増し[86][89]、『E.T.』は東映洋画系を中心に東映の多くの劇場でも上映され[89][90]、全国の劇場で開館新記録が相次いだ[90]。1983年は東映の興行収入の40%を洋画が稼いだ[22]

邦画大作を中心とした興行でこれまで東映本番線の不振をカバーする役目を担い[91]、洋画の買い付けを手控えていたが、1981年に洋画買い付けに再び色気を見せた[92]。しかし『クルージング』『アパッチ砦・ブロンクス』『ウルフェン』『人類創世』といった映画がことごとく不振で、買い付け価格の高かった『ウルフェン』『人類創世』がともに4億円未満の配収しかあがらず、10億円の赤字を出す[81][91]。赤字は『悪霊島』や『1000年女王』など、寄与率の低い作品では埋められず、第54期決算(1981年9月~1982年8月)で5億円の赤字を出す[91]。このため当分の間、原則として洋画は出さないという方針が打ち出された[91][92]。洋画配給は1987年の『七福星』が最後になった[3]

1977年の『人間の証明』以来、角川春樹事務所との提携を強めていたが、1985年に角川が自主配給の方針を打ち出したため[92]、提携を解消[93]。岡田社長から映画製作の指示を受け[73]、自主製作の踏み切る[93]。第一回自主製作は1985年の『それから[93]。同作は洋画系77館で公開され、ローカルで伸びなかったが、国内外の多くの映画賞を受賞し、森田芳光監督の名前を一気に高めた[93]。公開4ヵ月後の1986年3月に東映ビデオからビデオ発売された[93]

1990年代

1990年代に入ると外部提携も上手くいかず、失敗が続いた[77]。洋画の配給も途絶え、1995年6月1日、映画営業部に吸収され洋画配給部が廃止された[10][11]

沿革

  • 1972年5月16日 - 洋画部を新設[2]
  • 1976年3月1日 - 洋画配給部に改称、同部に洋画宣伝室を新設。従来の宣伝部洋画宣伝課は発展的に解消、洋画興行部門の強化のため、洋画興行課を発展的に解消し、洋画興行部が新設[2]
  • 1985年11月9日 - 第一回自主製作『それから』が公開される[93]
  • 1994年4月1日 - 洋画配給部は洋画宣伝室の実務を宣伝室に、一般事務などを映画営業部に移管[2][9]
  • 1995年6月1日 - 映画営業部に吸収され洋画配給部が廃止[10][11]
  • 1996年10月1日 - 洋画興行部が廃止。業務は映画営業部興行課と劇場管理部が引き継がれる[2]
  • 1997年4月 - 東映関東支社が廃止され、関東支社管轄劇場の洋画番組編成権も同様に引き継がれる[2]

主な公開作品

日付は封切日[94]。特記のない場合は配給のみ。主な出典は『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』460-463頁[94]。ジャッキー・チェンの主演映画『酔拳』『蛇拳』『笑拳』『拳精』『少林寺木人拳』『龍拳』『カンニング・モンキー 天中拳』『蛇鶴八拳』『成龍拳』『醒拳』は、買い付けたのは東映洋画だが[12]、配給は全て東映本体で行った[20]

1970年代

1980年代

1990年代

脚注

注釈

  1. ^ 1973年9月の文献では東映会館5階(『月刊ビデオ&ミュージック』1973年9月号、76頁)、1983年9月の文献では東映会館7階(『ロードショー』1983年9月号、237頁)。
  2. ^ 東宝東和は事業を継続しているが、松竹富士は1999年8月31日に解散し、以降の松竹の洋画配給は本社映像本部が行っている。
  3. ^ 洋画は一本立てのロードショー公開後にSTチェーン(松竹、東映洋画、東急レク)、TYチェーン(東宝)系統のそれぞれのチェーンで二本立て公開された。その公開劇場をゼネラル館と呼んだ。洋画ではゼネラル館の後に上映する劇場を二番館と呼んだ。ゼネラル館は今はない(『東映の軌跡』201頁)。

出典

  1. ^ a b クロニクル2 1992, pp. 52–53.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 東映の軌跡 2016, pp. 201–205.
  3. ^ a b c 東映、24年ぶりの洋画配給に気合の新レーベル発足!すでにアジアのみならずヨーロッパなどからもオファーが殺到中!! (1/2)東映トライアングル | 時事用語事典東映が新レーベル設立!24年ぶりの洋画配給へ
  4. ^ a b 沿革”. 東映. 2019年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年2月24日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l “輸入ポルノで協力、東映と松竹”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 9. (1972年4月24日) “〈あんぐる〉 東映の洋画輸入配給”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 7. (1972年5月2日) 
  6. ^ a b c 「映画界の動き 東映もポルノ着手」『キネマ旬報』1972年6月上旬号、キネマ旬報社、144頁。 
  7. ^ a b c d e f g h i j k 教科書 2016, pp. 182–184.
  8. ^ a b c d RS 1983, p. 237.
  9. ^ a b c d 「路線変更、体制建て直しの端境期 今年はアニメを主戦力に目標70億円 鈴木常承東映専務取締役インタビュー 聞き手・松崎輝夫」『映画時報』1994年3月号、映画時報社、13-14頁。 
  10. ^ a b c 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1996年版(映画産業団体連合会協賛)』1995年12月1日発行、時事映画通信社、16頁。 
  11. ^ a b c 「日本映画 東映は洋画配給部を廃止 文・大高宏雄」『キネマ旬報増刊 ビデオイヤーブック1995』1996年4月30日発行、キネマ旬報社、476頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i j k 成龍讃歌 2017, pp. 104–111.
  13. ^ a b 「岡田茂社長は語る 東映グループの前進と飛躍 良き指導者というものは状況の変化に即応する戦術をもつものと思う 聞く人・北浦馨/前進する東映映画の未来 エネルギッシュな活動とチームワークの勝利 池田静雄(東映取締役・宣伝部長)・片山清(東映取締役・企画製作部長)・畑種治郎(東映・営業部長)・戸倉繁(東映・興行部長)・鈴木常承(東映・洋画部長) 聞く人・北浦馨」『映画時報』1973年3月号、映画時報社、4-6、11-12頁。 
  14. ^ a b c d e 「ニュースメーカーズ 『やっぱりエロ!! 脱ヤクザ東映商法』」『週刊ポスト』1972年5月5日号、小学館、31頁。 
  15. ^ a b c d 矢田正人「財界レポート映画界の大御所・岡田茂がバトンタッチ 東映新社長・高岩淡は作家・檀一雄の実弟」『財界』1993年6月29日号、財界研究所、46 - 49頁。 
  16. ^ 映画界のドン 2012, pp. 17–36.
  17. ^ クロニクル東映2 1992, pp. 52–53.
  18. ^ 竹入栄二郎「映画40年全記録」『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号、キネマ旬報社、15頁。 「観客の目『トルコ風呂』も口に出す躍進する東映グループ」『週刊文春』1972年3月27日号、文藝春秋、24頁。 「東映にできた『何でもやる課』」『週刊新潮』1972年6月3日号、新潮社、13頁。 「News Makers 焼き肉屋まで手を伸ばす"東映商法"」『週刊ポスト』1972年9月22日号、小学館、32頁。 「儲かるものなら何でもやる!! 岡田社長、東映の企業体系を語る」『映画時報』1972年10月号、映画時報社、19頁。 「匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで 総合レジャー産業に発展 儲かるものなら何でもの岡田方式 映像中心にあらゆる職種に進出」『映画時報』1972年11月号、映画時報社、7 - 9頁。 「映画街」『シナリオ』1973年4月号、日本シナリオ作家協会、86頁。 「森川宗弘インタビュー ボウリング場始末記 ゲスト 東映(株)代表取締役社長岡田茂」『月刊レジャー産業資料』1974年10月号、エコセン、160 - 166頁。 「首脳陣初のことば 岡田社長今年度の経営方針を語る 経営三原則で第三期黄金時代へ始動」『映画時報』1973年2月号、映画時報社、12 - 13頁。 
  19. ^ a b 映画界のドン 201, pp. 17–36.
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  • 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 9784636885194 
  • 二階堂卓也『ピンク映画史』彩流社、2014年。ISBN 978-4779120299 
  • 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年3月。 
  • 斉藤守彦『映画を知るための教科書 1912~1979』洋泉社、2016年。ISBN 978-4-8003-0698-2 
  • 鈴木常承・福永邦昭・小谷松春雄・野村正昭「"東映洋画部なくしてジャッキーなし!" ジャッキー映画、日本公開の夜明け」『ジャッキー・チェン 成龍讃歌』、辰巳出版、2017年7月20日発行、ISBN 978-4-7778-1754-2 
  • 藤木TDC『アウトロー女優の挽歌 スケバン映画とその時代』洋泉社映画秘宝〉、2018年。ISBN 978-4-8003-1574-8