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「斎藤邦彦 (外務官僚)」の版間の差分

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[[外務省]]主流派を歩んだエリート官僚であり、「ミスター外務省」「外務省のドン」と畏怖された人物である。今でも外務省に絶大な影響力を持つとされる。
[[外務省]]主流派を歩んだエリート官僚であり、「ミスター外務省」「外務省のドン」と畏怖された人物である。今でも外務省に絶大な影響力を持つとされる。


[[1958年]](昭和33年)に[[東京大学法学部]]を卒業後、外務省に入省。同期に[[佐藤嘉恭]](官房長、中国大使)など。英語研修(イギリス)を経て、スイス、マレーシア、フランス、ベルギー(EC)にて勤務。条約局長、イラン大使、外務審議官などを歴任し、1993年(平成5年)外務事務次官を務める。1995年(平成7年)、駐米国大使に就任した。
[[成蹊中学校・高等学校|成蹊高等学校]]を経て、[[1958年]](昭和33年)に[[東京大学法学部]]を卒業後、外務省に入省。同期に[[佐藤嘉恭]](官房長、中国大使)など。[[英語]]研修([[イギリス]])を経て、[[スイス]][[マレーシア]][[フランス]][[ベルギー]](EC)にて勤務。条約局長、イラン大使、[[外務審議官]]などを歴任し、1993年(平成5年)[[外務事務次官]]を務める。1995年(平成7年)、駐米国大使に就任した。


[[1999年]](平成11年)に外務省を退官した後は[[国際協力事業団]](JICA)の総裁を務めていたが、2001年[[外務省機密費流用事件]]の責任を問われ、給与自主返納をしたものの、[[小泉純一郎]]総理大臣の意向で更迭された<ref> 「<小泉首相>田中外相要望の人事先送りは認めず やま場を迎える」毎日新聞2001年8月2日</ref>。その後、国際親善協会(FEC、現在の[[民間外交推進協会]])の理事長を務めた。2006年、北鎌倉女子学園理事長に就任。
[[1999年]](平成11年)に外務省を退官した後は[[国際協力事業団]](JICA)の総裁を務めていたが、2001年[[外務省機密費流用事件]]の責任を問われ、給与自主返納をしたものの、[[小泉純一郎]]総理大臣の意向で更迭された<ref> 「<小泉首相>田中外相要望の人事先送りは認めず やま場を迎える」毎日新聞2001年8月2日</ref>。その後、国際親善協会(FEC、現在の[[民間外交推進協会]])の理事長を務めた。2006年、北鎌倉女子学園理事長に就任。
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[[Category:瑞宝大綬章受章者]]
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[[Category:東京大学出身の人物]]
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[[Category:存命人物]]
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2020年3月27日 (金) 05:17時点における版

斎藤 邦彦(さいとう くにひこ)は、日本外交官

経歴

外務省主流派を歩んだエリート官僚であり、「ミスター外務省」「外務省のドン」と畏怖された人物である。今でも外務省に絶大な影響力を持つとされる。

成蹊高等学校を経て、1958年(昭和33年)に東京大学法学部を卒業後、外務省に入省。同期に佐藤嘉恭(官房長、中国大使)など。英語研修(イギリス)を経て、スイスマレーシアフランスベルギー(EC)にて勤務。条約局長、イラン大使、外務審議官などを歴任し、1993年(平成5年)外務事務次官を務める。1995年(平成7年)、駐米国大使に就任した。

1999年(平成11年)に外務省を退官した後は国際協力事業団(JICA)の総裁を務めていたが、2001年外務省機密費流用事件の責任を問われ、給与自主返納をしたものの、小泉純一郎総理大臣の意向で更迭された[1]。その後、国際親善協会(FEC、現在の民間外交推進協会)の理事長を務めた。2006年、北鎌倉女子学園理事長に就任。 2009年、瑞宝大綬章受章[2]

その他

参考文献

脚注

  1. ^ 「<小泉首相>田中外相要望の人事先送りは認めず やま場を迎える」毎日新聞2001年8月2日
  2. ^ 斉藤邦彦理事長が瑞宝大綬章を授与されました