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「正慶寺」の版間の差分

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* [[文永]]11年([[1274年]])日蓮の[[身延山]][[久遠寺]]入山に際し庄左衛門の邸で栗飯の供養を受け、[[正慶]]元年([[1332年]])是好麿(庄左衛門の子)がこの邸に建てた[[持仏堂]]が起源。
* [[文永]]11年([[1274年]])日蓮の[[身延山]][[久遠寺]]入山に際し庄左衛門の邸で栗飯の供養を受け、[[正慶]]元年([[1332年]])是好麿(庄左衛門の子)がこの邸に建てた[[持仏堂]]が起源。
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*上記の正慶寺住職の説について。 正慶元年は、中道院日了上人(幼名・是好麿)が55歳の時、年号を寺名として、正慶寺を開いた年と伝えられています。その直後の正慶元年8月7日、日了上人は、入滅されています。 また、是好麿が旧宅(生家)を寺にしたのは、13歳の時の正應3(1290)年3月28日とあります。この時、得度(受戒得度)し、中道院日了となりました。このことから判断して正慶寺住職の説は最近作られた説といえます。 以下、正慶寺の草創期の模様を記します。
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*正慶寺は創建以来火災などに遭わなかったようです。その歴史を伝える初版の縁起は、平成15年ごろまで現存していましたが処分されてしまいました。が、幸いにもその内容は甲斐国志(妙了寺編・正慶寺編)に伝えられています。また、再改の正慶寺縁起や多くの資料は、下記のように関係年月日を示し、草創期の模様を伝えています。
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*文永11(1274)年5月12日 日蓮聖人は鎌倉を発ち身延に向かわれました。5月17日の昼頃、相又の地に入り、大道村の薩花(史の和訓なまって薩花サッカ)正左衛門夫妻から粟飯の供養を受けました。これにより正慶寺は粟飯寺ともいわれています。この粟飯供養の模様を正慶寺縁起は「石アリ是ニ座シテ憩息ス 時ニ大堂(道)村ノ史正左衛門ノ妻 粟飯ヲ首(アタマ)ニ戴キ来リ敬シ之ヲ供ス」また、「御教化ノ時ウツリ、日カゲリ、大黒天ヲ夫妻ニ賜リ辞シテ波木井ノ郷」とあり、夫妻は身延で最初の信者となりました。その後、しばしば身延山に参り、薪をとり、衣をすすぎ八役給仕の誠を奉じ、また、お弟子方の末席に坐して説法に耳を傾けて、信行の功を積んだと伝えられています。
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*文永11(1274)年9月8日 粟飯のご供養から4か月後。 妻(妙了日仏尼)は、身延山内で最初になる下之坊を建てたとあります。(身延山坊跡録より) この下の坊は、ご草庵に参る女信者の為に宿泊の本拠となったので、遠近女人の如何計り助けとなったことか、妙一尼、妙法尼、女房の尼等ここに宿りて教化を受けた。と、伝えられています。
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*弘安元年(1278)3月9日 粟飯のご供養から4年後。 この日、正左衛門の妻は、大変な難産で苦しみました。夫は驚き「身延山に馳(ハ)せ参り、御祈祷を願い、護符を戴き急ぎ帰り、御教喩の通り東方清浄の地にこれを安んじ、一心に唱題、果たして霊水湧く。服させると即時に免身、玉の如き男児出生。」と伝えられています。 正慶寺は、この日に生まれた児(是好麿・中道院日了上人)が開きました。 このことにより、母(妙了日仏尼)を救った護符が、正慶寺の歴代住職により脈々と受け継がれてきました。護符を戴いた水は護符水(安産の井戸)と呼ばれ、大道の東方にあります。正慶寺は、安産祈願の寺でもあります。
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*弘安2(1279)年9月8日 粟飯のご供養から5年半後。 薩花正左衛門みまかる。児の誕生から1年半後のことになります。
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*弘安3(1280)年1月5日 この日、妻は、夫の死を嘆き悲しみ、児を懐に身延山に参り仏弟子懇願。聖人はこれを許し「姥(ウバ)を剔髪(テキハツ)せしめ 妙了日仏となづけ 児を字して是好麿と呼びけむ、文字を粟冠サッカ(史氏の和訓に転用のなまりなり)と改めさせぬる。往時、粟の飯を載せて大士にまみへ奉りしにより也、則大本尊をおしたため傍(カタワラ)に粟冠姥妙了日仏に授与されり」とあります。 
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*この頃、聖人の健康はすぐれず、妙了日仏尼はご快復を願い、一生懸命お仕えしました。日仏尼は、過去遠劫よりの約束事によって、聖祖へ給仕の為に示現した十羅刹女の一人か、末代給仕の亀鑑として之を習うべきだある。また、平賀将監の長子万寿麿や法華経に身を捧げられた方の子達を我が子、是好麿と共に養育に努め、広宣流布の宝器となったのも算(カゾ)えれば日仏尼の母性愛の育英による所大である。この事は、兵衛志ご返事の一文にても推察が出来る。とあります。(身延山久遠寺発行・月刊誌みのぶ、「粟冠サッカの尼」「下之坊のおこり」より)
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*このような妙了日仏尼は、聖人をはじめ、門下の方々や、里の人たちから「粟冠の姥」「粟冠の尼」「粟冠優婆」などと呼ばれ、敬愛され称えられていました。日蓮聖人涅槃図の座敷の間の中央付近に描かれ、平重盛の曽孫にして秋山太郎光朝の孫になると伝えられています。
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*正應3(1290)年3月28日 粟飯のご供養から16年後。 この日、妙了日仏尼の児、是好麿は「旧宅(生家)を寺となし、宗祖、両親菩提のため当山を興す。」と日蓮宗大鑑は伝えています。弘安元年3月9日生まれの是好麿は13歳に成長。身延山久遠寺三世となる、師の日進上人より中道院日了の法号を授けてもらった得度(受戒得度)の日と思われます。正慶寺の始まりになります。
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*正安改元(1299)8月22日 粟飯のご供養から25年後。 妙了日仏尼入滅。 この年、子供の日了上人は、「宗祖、両親菩提のため石の傍(カタワラ)に大黒堂を建てる。これが正慶寺の起源」と全国寺院名鑑は伝えています。また、「父母発心の地に就いて、林芥を披き、土を運び、大石の傍らに法宇を営み、往時賜るところの大黒天像を安置する。これ則ち当山なり。」と正慶寺縁起は伝えています。
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*正慶改元(1332)  日了上人「年号を寺名として正慶寺を創建する。」と日蓮宗大図鑑は伝えています。また「妙了尼感得の大光徳、当寺の墨賓(ボクヒン)になり」と正慶寺縁起にはあります。妙了日仏は開山(勧請開山)として迎えられました。
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*正慶改元(1332)年8月7日 中道院日了上人、入滅。正慶寺を開いた直後のことになります。
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*この正慶寺には、日蓮聖人手彫りの大黒天像、粟飯の礼状、旅姿の聖人像、妙了日仏尼像等の寺宝が伝えられています。近年、正慶寺の歴史は諸説が作られ広まりましたが、正慶寺縁起や多くの資料を参考に正慶寺の草創期の模様を記しました。                                                     
*境内

* 本堂


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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* 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山[[池上本門寺]] ([[1981年]])
* 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山[[池上本門寺]] ([[1981年]])
* 市川智康『日蓮聖人の歩まれた道』水書房
* 市川智康『日蓮聖人の歩まれた道』水書房
*「本化別頭佛祖統紀・高祖日蓮大菩薩本紀」
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*「高峯山妙了寺縁起」
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*「大石山正慶寺縁起」
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*「甲斐国志(妙了寺編・正慶寺編)」
*正慶寺の住職が選んだ上記の参考資料「日蓮宗寺院大鑑 正慶寺の項・昭和56年発行」には、住職が記した正慶寺の紹介文が掲載されています。その内容は、聖人が身延ご出山の際、「妙了日仏尼が池上まで供奉し大黒天像を賜った」と記しています。この記述に疑問を感じ、調べた資料の内容を記します。
*「甲斐百寺その歴史と文化・妙了寺編」
*……
*「角川 日本地名大辞典19山梨県・相又の項」
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*「日蓮宗大鑑」
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*「全国寺院名鑑」
*1、聖人が池上に着かれ、滞在中に書かれた、「日蓮聖人遺文集・波木井殿御報」が遺されています。そこには波木井殿の御令息たちに助けていただき、池上に着かれたことを記していますが、妙了日仏尼が池上まで供奉したことは記していません。
*「日蓮宗大図鑑」
*……
*「日佛様の御傳記」
*
*「月刊誌みのぶ」身延山久遠寺発行
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*2、昭和44年、身延山久遠寺発行 月刊誌みのぶ「下之坊のおこり」には、日仏尼母子は、その日、御草庵をお守りするよう申し含められ、随従は許されなかったと記しています。
*……
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*3、聖人が身延をご出山する模様は、多くの書物が伝えていますが、昭和56年発行の「日蓮宗寺院大鑑」以前の書物には、妙了日仏尼が池上まで供奉した記述はみつかりません。
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*4、弘化3年再改の正慶寺縁起には、粟飯供養の際、聖人が大黒天像を夫妻に賜る模様が「ご教化の時うつり、日かげり、大黒天を夫妻に賜り、辞して波木井の郷」とあります。この正慶寺縁起は、正慶寺の正面に掲げられています。その27,28行目に記してあり、肉眼でも読み取ることができます。 これらの資料から、妙了日仏尼は、「池上まで供奉していない。よって大黒天像も賜っていない。」と判断できます。
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*鰍の説話もこの2冊の本に掲載されていますが、最近作られた説により、下記の資料には伝えられていません。
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*正慶寺の歴史を伝える参考資料を記します。
*「本化別頭佛祖統紀・高祖日蓮大菩薩本紀」「高峯山妙了寺縁起」「大石山正慶寺縁起」「甲斐国志(妙了寺編・正慶寺編)」「甲斐百寺その歴史と文化・妙了寺編」「角川 日本地名大辞典19山梨県・相又の項」「日蓮宗大鑑」「全国寺院名鑑」「日蓮宗大図鑑」「日佛様の御傳記」身延山久遠寺発行月刊誌みのぶ「下之坊のおこり・粟冠の尼」


== 公式サイト==
== 公式サイト==

2019年5月17日 (金) 07:32時点における版

正慶寺
位置 北緯35度20分51.3秒 東経138度25分25.1秒 / 北緯35.347583度 東経138.423639度 / 35.347583; 138.423639座標: 北緯35度20分51.3秒 東経138度25分25.1秒 / 北緯35.347583度 東経138.423639度 / 35.347583; 138.423639
法人番号 9090005005770 ウィキデータを編集
正慶寺の位置(山梨県内)
正慶寺
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正慶寺(しょうけいじ)は、山梨県南巨摩郡身延町相又にある日蓮宗の寺院。山号は大石山。別名粟飯寺。境内には立正大師日蓮が休息したという大石がある。この石は山号の由来ともなった。旧本山は身延山久遠寺、鏡師法縁(善学会)。

歴史

脚注

参考資料

  • 日蓮宗寺院大鑑編集委員会『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』大本山池上本門寺 (1981年)
  • 市川智康『日蓮聖人の歩まれた道』水書房
  • 「本化別頭佛祖統紀・高祖日蓮大菩薩本紀」
  • 「高峯山妙了寺縁起」
  • 「大石山正慶寺縁起」
  • 「甲斐国志(妙了寺編・正慶寺編)」
  • 「甲斐百寺その歴史と文化・妙了寺編」
  • 「角川 日本地名大辞典19山梨県・相又の項」
  • 「日蓮宗大鑑」
  • 「全国寺院名鑑」
  • 「日蓮宗大図鑑」
  • 「日佛様の御傳記」
  • 「月刊誌みのぶ」身延山久遠寺発行

公式サイト

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